1992年8~9月 九州

 

平成4年(1992年)8~9月 鉄研九州合宿

 

平成4年(1992年)の鉄研合宿は大分県の別府での実施。当時、乗車列車は概ね記録していて、帰宅後にレポートの制作に着手していましたが、8月28日の出発から91日の合宿地到着までで止まっていて、合宿中日の92日から95日までは未作成でした。令和3年に乗車記録と91日までのレポートを合体し、2日以降の状況については写真や資料から記憶を呼び起こして、令和5年までかけて続きを作成しました。

 

平成4年(1992年)8月28日(金)

◎東逗子 920→952 横浜  千葉行986S

当初予定は始発で出発して、名古屋・新大阪間以外は普通と快速で急行日南まで乗り継ぐものだったが、急用のため予定変更。4時間半ほど遅らせて、東逗子発9時20分の列車に乗り、横浜には9時52分の定時で到着。

 

◎横浜 955→1006 新横浜  八王子行快速945

3分接続の、9時55分の横浜線快速に間に合った。先頭車に居たためか車掌に会わず、新横浜で降りてから精算した。

新横浜では、前もって購入していた、名古屋・新大阪間の特急券を、新横浜・三原間に変更しなければならない。もとの券を購入したのがJTB(三田支店)であったため、新横浜JTBを探す。時刻表によるとその所在地は光正新横浜駅前ビル4Fとあるため駅前を見渡すと、JTBの看板が大通りの反対側に見えた。そこで無事特急券の変更を完了して駅に戻り、特急券と周遊券(都区内発九州ワイド)で改札を通り、本格的に旅が始まった。

◎新横浜 1059→1328 京都  ひかり227号 新大阪行227A  10016両編成 2号車=126-161

新横浜の新幹線ホームは2面4線で、通過専用線はない。代わりにひかり号用の乗り場ではホームが金属製の壁で仕切られていて、新幹線車両の扉の停車する位置に合わせて自動扉がある。列車が止まったときだけ、これらが開くようになっている。よく考えたものだ。(当時、ホームドアは一般的ではなかった)

通過列車を一本見送った後で「ひかり227号」が入線し、乗車する。通路側ながら席を確保し、列車はすぐに発車した。さすがは天下の新幹線、発車するときに特有の衝撃がない。車両は100系(2階建て車両2両を連結した鼻の長い車両)で、普通車自由席でもかなり座席間隔が広く、自由に足が伸ばせる。また、足置きがあるのも良い。新横浜で自由席はほぼ満席となり、座席を探している乗客のために車掌が空席を探し歩いていた。次の名古屋まで100分近くかかるため、立席だと疲れると思われるが、幸い全乗客が席を確保したようだ。車内のサービスとしては、客室ドア上の電光表示板があり、到着駅の案内、ニュース、広告や、トイレ・電話の使用状況を表示する。電話はほぼ2両に1カ所ある。また、中程の車両にはカフェテリアがあり、弁当、飲料、土産物などを売っているが、覗いてみたところ、値段に見合った物はなさそうだ。車内販売も頻繁に回っている。列車内にはFM電波が放たれており、手持ちのラジオで放送を聞くことができる。

 

 京都でひかり227号を降り、約15分後の「ひかり13号」に乗り換えることにした。「ひかり227号」で新大阪まで行くこともできるが、「ひかり13号」に京都から乗れば、万が一座れなくても、次の新大阪で下車する乗客が多いだろうから、そこで座れる可能性が高いのである。京都での乗り換え時間にコンコースを彷徨くと、ビジネスセンターなるものが新幹線改札内にあり、そこで充電式電池を購入した。また、土産物屋や書店、食堂等が並んでいる。新幹線の他の駅と比べて格段の設備だ。ホームに戻り、手ごろな弁当を探していると、サンドウィッチ弁当?(正確な名前は失念)が目についた。カツサンドを含むサンドウィッチ数切れと冷めたポテトフライに、デザートのバナナまで付いて400円の価格で、得した気分になる。飲物はJR西日本名物(と勝手に決めて、西日本に行く度に購入している)20世紀梨ドリンクである。

 

◎京都 1344→1452 岡山  ひかり13号 博多行13A  10016両編成 2号車=126-1

しばらく待って、「ひかり13号」に乗車した。その際ホームには短い行列ができていたが、小さい孫?をつれたオバサンが列を無視してズンズンと乗車していく。その娘?が制止していたが、聞く耳持たず、その姿は車内に消えた。それでも席は若干残っており、3人がけの通路側に座ることができた。乗車率は105%程度と思われる。

新大阪を出てから前述の弁当を食べ、その後は景色を見たり、車内を散歩したりする。車両は「ひかり227号」と同じ100系だが、この車両には足置きがない。岡山で降りたときに車両番号を見ると、(TEC)126-1で、恐らく100系の中で最初にできた編成のようだ(ひかり227号の同じ部分の車両は126-161だった)。

 

◎岡山 1501→1554 三原 こだま551号 博多行551A  0(16次車)6両編成 1号車=21-97

岡山で乗り換えた「こだま551号」は0系6両編成で、自由席の車内の様子は100系とだいぶ異なる。座席間隔はかなり狭く、電光掲示板等のしゃれた設備はない。しかし空いていたのでのんびりできた。たまに地上の景色や在来線の線路などが見えるが、山陽新幹線名物のトンネル群によって頻繁に遮られる。新尾道を出ると間もなく三原なので、早めにデッキに出ると、運転室の後ろの扉の窓から運転室の一部が見えることが分かった。但しほんの一部分で、運転手の姿までは見えない。斜め上に窓が見えるが、扉の後ろからでは角度が急で、空しか見えない。三原で新幹線を降り、在来線ホームに移動した。京都とは対象的に、改札の中には殆ど何もない。

 

◎三原 1604→1852 岩国  (呉線経由)岩国行941M  1154両編成最後4号車=クハ115-333

7分の接続で、1604発の呉線経由岩国行きに乗り換えた。ここで当初の予定を回復したことになる。古い115系電車にはローカル線の雰囲気があり、ようやく、旅に出た実感がわく。しかしこの車両のボックス席には多くの中距離電車にある小型テーブルがなく、やや不便だ。三原を発車した列車は山陽本線から分岐して、海沿いの線路を走る。進行方向左手の海には緑色の複雑な形をした島々(因島や大久野島と思われる)が浮かび、絶景だ。しかし3つめの忠海を出る頃からやや内陸に入り、海は見えなくなる。乗客は少しずつ減っていき、閑散としてきたが、広や呉で会社帰りと思われる人が多く乗り込み、立ち客も出た。山陽本線と再合流し、広島では更に乗客が増え、朝の横須賀線並みの混雑となった。その混雑は暫く続いた。そのうち、左手に広島電鉄宮島線の線路が見え、宮島口付近まで並走する。海の向こうに宮島が浮かび、鳥居らしき物も確認できた。宮島口を過ぎた頃から混雑がおさまり、間もなく終点の岩国に着いた。

 

◎岩国 1900→2011 徳山 (岩徳線経由)徳山行1851D  2両編成 キハ47 102

岩国からは岩徳線の気動車に乗り換えた。弁当屋を探すために無駄な時間を費やした結果、乗ったときにはほぼ満席で、ようやく端の方の席を確保できた。しかし、いくつか駅を過ぎると、乗客は減っていき、やがて1車両に5人から10人程度になった。ちなみに列車は2両編成である。岩国を出てからすぐに日が暮れて、外の景色は見えない。いくつかトンネルを通ったが、その度に線路の音が異様に大きく響く。線路の手入れが余り良くないのだろうか。その後も乗客は減り続け、終点徳山で下車したのは数人程度だった。

徳山の改札付近で駅そばを見つけ、ようやく夕食にありつく。次の列車まで20分接続と、余裕があった。

 

◎徳山 2031→2222 下関  下関行1571M  1154両編成先頭=クハ115-320

 自宅に電話をしてから2031発下関行きに乗った。これも混んでいたが、ドア付近の席に座れた。途中でボックス席に移り、のんびりと、下関まで2時間近くを過ごした。

 

◎下関 2223→2230 門司  門司行279M   4214両編成先頭=クハ421-72

下関ではわずか1分の接続で門司行きに乗換となる。列車はホームの反対側に止まっていた。車内は余りきれいでなかったが、比較的空いている。下関を出ると間もなく関門トンネルに突入するが、わずか5分ほどで外に出て、九州に上陸した。トンネルを出るとすぐにデッド・セクション(直流から交流に電化方式が替わる地点)を通過し、その際一瞬だけ車内の明かりが消える。そこは既に門司駅の構内で、列車はすぐに終点門司に到着した。

 

◎門司 2242→2250 門司港  門司港行582M  4118両編成先頭=クハ411-1513

門司では2分接続の門司港行きに乗り換える予定だったが、ホームを探している内に予想とは別のホームからその列車は出発し、10分後の列車となる。2242発のその列車は4111500番台の銀色の電車で、外観はすっきりとしていたが、ロングシートの車内にはゴミが散乱していて、その中に僅かな乗客が点在している。先頭車両から前を眺めていたが、暗いので殆ど何も見えない。たまに色灯式信号が見える程度だ。8分で終点の門司港に到着し、行き止まり式ホームの奥の改札を出る。その際に九州入りして始めて途中下車印を押してもらう。

ルネッサンス式らしき駅舎は大正時代のもので、重要文化財に指定されている。待合室には駅舎の模型が置いてあった。切符売場や待合室の看板は当時のものらしく、そのほかの設備も当時の状態をできるだけ維持している。そのなかで新型の自動券売機がアンバランスだ。駅の前に出て建物を眺めてみた。夜はライトアップしていると聞いていたが、時間が遅いためか、明かりは消えていた。

 

◎門司港 2308→2326 小倉  柳ヶ浦行523  ED76 60+506両編成先頭=オハフ50-103

 門司後発2308の普通列車で小倉に出た。50系の客車列車で、6両つないでいたが、車両によっては2、3人しか乗っていない。小倉まで20分近くの道のりを、コトコトと走り抜けた。

 

◎小倉 2339→526 延岡  日南 西鹿児島行 急行501  127両編成最後=スハフ12-59

小倉に着くと、次に乗る急行「日南」は既に到着していて、方向転換のために機関車の着け換えをしていた。列車の止まっている7番ホームを歩いていると、車内からN君が現れた。博多から乗っていた様だ。やや空いていた最後尾の禁煙車に荷物を置き、列車が動き出してから、N君のいる車両に行って暫く話をした。この時点で彼は九州全鉄道のほとんどを制覇して、残り3路線ほどらしい。この列車で南宮崎まで行って、日南線に乗りに行くそうだ。もう一人1年生のM君が乗っているというので後ろを見ると、彼は既に熟睡していた。そのころには日産九州工場のある苅田はいつの間にか通り過ぎていた。自分の席に戻って、仮眠をとることにする。

 

平成4年(1992年)8月29日(土)

526に延岡に到着し、列車から降りた。その際に隣の車両を覗いてみるとN君たちは爆睡していて、客車特有の、停車の衝撃にも気づかない。10分ほど停車しているので、隣のホームから列車の写真をとった。その内に列車は発車したが、彼が起きた様子はない。急行「日南」を見送った後、改札を出た。高千穂鉄道の始発列車まで1時間もある。歩いて行ける距離にめぼしい観光地もなさそうで、食堂等もまだ開いていないため、駅前のベンチで暇を潰す。ベンチは地元特産の延岡杉でできている。それはよいのだが、駅の公衆トイレの匂いが外にも流れていて、余り快適ではない。

 

◎延岡 627→753 高千穂  高千穂行801()  TR2両編成先頭=TR104

JR駅の隣に高千穂鉄道の駅舎がくっついており、発車の数分前に改札を通った。切符は既に横浜JTBで購入してあったものだ。片面だけのホームに止まっていた1両のレールバスに、同じ型の車両をもう1両増結していた。定刻より1分ほど遅れて列車が動き出し、すぐに左にカーブして日豊本線の線路から遠ざかる。座席の埋まり具合は40%ほどで、この時間のローカル線にしてはまずまずのものと思われる。列車は小さな駅にいくつか停車しながら山の中に入っていく。

途中の川水流(かわずる)で対向列車とすれ違い、タブレットの交換をしていた。数少なくなった腕木式信号機とよく似合う風景だ。信号機の腕木が斜めに傾き、列車はさらに山中に進む。日ノ影でも列車の交換が行われた。並走する国道は線路よりはるかに高い位置を走っており、川の遥か上に橋が架かっている。東洋一高いという青雲橋(川面から橋梁までの高さが135m)が見える位置で列車は最徐行以下の速度に減速し、観光案内のテープが流れる。名前は忘れたが有名?な滝が見える位置でも、同様に減速し、案内があった。



日ノ影までは線路は川沿いに走っていたが、そこから先は昭和47年開通の新線区間で、トンネルが多くなる。深角を出てしばらく走ると、列車は高千穂橋梁を通過する。この橋は川面からの高さが105mで、鉄道橋の中では日本一高い。列車は橋の上で一旦停車し、観光客が景色を眺めることができるように配慮している。橋のすぐ向こうに天岩戸駅があるがそこには何もなく、その次が終点の高千穂である。

高千穂駅には鉄道関係の施設と小さな売店らしき物の他には何もない。写真を撮ってからバスターミナルに向かって歩くことにした。線路の上を道路が通っており、高千穂の街に向かって緩やかな下り坂になっている。その坂を10分か15分程下ると街中に入り、2つめ位の交差点の近くに宮崎交通のバスターミナルがある。

 

◎高千穂営業所 830→850 天ノ岩戸  天ノ岩戸行  宮崎交通バス

830発のバスで天ノ岩戸神社に向かった。途中で高千穂橋のよく見えるところを通ったが、写真を撮る機会を逸してしまった。バスは川沿いの細い道を上流に進んでいく。見通しの悪いカーブが多く、運転手は頻繁に警笛を鳴らして、居るかも知れない対向車や歩行者に注意を喚起する。やがて天ノ岩戸(鉄道の駅からは5kmくらい上流にある)に到着した。天ノ岩戸神社(西宮)の入り口はすぐ近くにある。

 

 せっかく天ノ岩戸に来たのだから、岩戸を見なければならないと思ったが、どこに行けば見れるのかさっぱり分からない。神社の人に聞いてもよく分からない。仕方がないので先に、神社の奥にある天安河原を見に行くことにした。細い土の歩道が川沿いに通じていて、たまに案内板がある。天ノ岩戸峡の中の道で、峡谷の景色がよい。10分くらい歩くと道は行き止まりで、洞窟があり、その中に小さな社がある。かなり歴史の古い洞窟らしく、中から土器か何かが大量に発見されたらしい。また、入り口には河原の石を10から20cmくらいに積んだ物が沢山ある。そのあたりが天安河原で、その昔、八百万の神が集まって、大岩戸に隠れた天照大神をどの様に誘い出すか相談した場所だと言われている。

 神社に戻り、その辺をうろうろしていると、岩戸を見に行くらしい一行(神社の人と夫婦連れ一組)が居たため、その中に紛れ込んだ。更に2人ほどが加わる。神社の人が拝殿?の入り口の木戸を開け、我々が入るとまた閉める。そこから先は御神域だそうで、木戸を入った所でお祓いを受けた。一行がお辞儀をしている前で、榊のようで榊ではない木(名前は覚えていない)の枝を一振りし、更にその枝に聖水?をつけて枝を弾き、参列者に聖水をふりかける、という儀式である。その後、前に進んで、川に面した展望台のような所に案内される。そこが拝殿らしい。この神社には本殿はなく、その代わりが対岸にある天ノ岩戸だという。しかし岩戸らしきものは見えない。対岸一面に濃い緑の木が生い茂っていて、それがやや窪んでいるように見えるところに岩戸があると言われているらしい。長い年月の内に岩戸が木に覆われて、岩戸自体もかなり風化しているらしいとのことだ。岩戸のある対岸も神社の所有地だが、過去700年ほどは誰も入ったことがなく、実際に岩戸がどうなっているのか誰にも分からないそうだ。

岩戸を見る方法を探すのに手間取り、予定していた948発のバスには乗れず、次の1038発を待つことにした。その間に、神社の近くにあったスーパーマーケットらしき店でパンと飲料を購入し、バス停の近くのベンチで朝食にする。

 

◎天ノ岩戸 1038→1055 高千穂営業所  高千穂営業所行 宮崎交通バス

1038発のバスで高千穂に戻ったが、来たときとは反対の岸に沿って川沿いの道を下る。こちらの道の方がよく整備されている。しかし高千穂バスターミナルでは1053発の高森行特急バスにマイナス2分の接続で間に合わず、1200発の鈍行バスまでそのあたりを散歩することにした、が、雨が振ってきたのでバスターミナルの待合い室に戻り、暇を持て余した

 

◎高千穂営業所 1200→1324 高森  高森駅行 宮崎交通バス

1200にバスは高千穂を出発し、しばらくは普通の道を走る。近くに、建設途中で放棄された高千穂・高森間鉄道の高架線や橋梁(の跡)が並走している。やがてバスは山道に入り、クネクネとカーブしながら山奥に突入していった。また、鈍行バスは好んで間道に入り、トンネルに入る本線を横に見ながら更に山深く分け入る。定刻の1324に僅かに遅れて、バスはようやく高森に到着した。

 


◎高森 1338→1431 立野  ゆうすげ号  立野行9016レ

高森からの南阿蘇鉄道(旧国鉄高森線)の接続は、臨時トロッコ列車の「ゆうすげ号」であった。運賃の他にトロッコ車両の乗車整理券(100円)を購入し、列車に乗り込む。編成は、機関車1両にトロッコ2両、最高尾にレールバスが1両付いている。機関車は、どこかの森林鉄道にでも走っていそうなゲテモノだ。トロッコ車両は座席が狭く、そこに乗客が押し込まれる。定員の7割くらいしか乗っていないようだが、それでもかなり窮屈だ。それだけならまだ良いが、蝿がやたらと飛んでいることにはうんざりした。近くに牧場でもあるのか、車両が非衛生的なのか、その理由は分からない。車両からの景色は素晴らしい。進行方向右手には、中岳を中心とした阿蘇五岳の全景が望め、反対側には外輪山が広がる。



 各車両に一人ずつ乗務員が居て、マイクで観光案内をしたり音楽を流したり、沿線マップを配布したりする。かなり熱心である。ただ、地元の民謡なども流しているのに混じって何故か「オソ松音頭」があり、謎の選曲基準で、阿蘇の景色と全く合わない。長陽を過ぎると景色が急に変わり、トンネルの間に渓谷が広がる。白川鉄橋では観光サービスのために徐行して、また一つトンネルをくぐると、終点の立野に着いた。

 

◎立野 1440→1514 阿蘇  宮地行757D  2両編成先頭=キハ47 1045

 9分の接続で豊肥本線の宮地行きに乗り換える。列車は後退してスイッチバックに入り、1kmほど走ってから折り返して、眼下に立野駅を望みながら坂を上る。この時点で当初の予定より1時間遅れており、宮地まで行ってから「SLあそBOY」で戻ってくる予定だったのを、2つ手前の阿蘇でその列車を待つことにした。列車はやがて平坦な区間に入り、赤水で特急あそ4号と行き違い。


 1515に阿蘇に到着した。

 


◎阿蘇 1534→1715 熊本  SLあそBOY  熊本行快速8712  58654+503両編成最後1号車=オハフ50-701

阿蘇駅は全てがウェスタン・スタイルに改装されている。暫く待つと、8620型蒸気機関車(機関車番号58654)を先頭に、快速「あそBOY号」が入線した。



客車は3両で、昭和50年代に製造された50系客車を改造したものだが、象牙色と茶色を主とした米国西部風の塗装になっている。ただ、客車に組み込まれた発電機の音が機関車のドラフト音を消してしまい、耳障りではある。車内も、西部をイメージした木目調であり、座席は固定式のボックスシートである。冷房は完備されているが、窓を開けることもできる。天井付近には(さりげなくだが)ビデオモニターが設置されており、これだけが周りの雰囲気に馴染まない。客車の最前部と最後尾には展望室がある。最前部(機関車のすぐ後ろ)の展望室は記念品や土産物が陳列されており、走行中は販売もしている。最後尾の展望室は完全なフリースペースになっていて、後ろの景色を眺めたり、窓を開けて前を走っている機関車を見たりできる。また、中間車にはビュッフェがあり、軽食を供している。

阿蘇を発車して間もなく、こういった車内の案内が行われた。車内放送の最初にオルゴールやシンセサイザーのメロディを流す列車が多いが、この列車では、曲名は知らないが何やら西部や阿蘇をイメージさせる曲を流している。暫く経ってから車内検札があった。この際に記念の乗車証明書(硬券で横長の乗車券型)を配ったらしいが、車内を歩き回っていたせいかもらい損ね、後でそのような物が存在するらしいことに気付いて、車掌室まで貰いに行った。

途中のどこかの駅(確か赤水だったと思う)では、ホームに乗馬が数騎乗り入れてきて、(馬に乗っている人達が)車掌と話をしていた。車掌を始めとする客室乗務員は全員、カウボーイの格好をしているため、こういった雰囲気に馴染みすぎている。立野では先ほどと同じようにスイッチバックをして、後ろ向きにホームに滑り込む。立野では5分ほど停車時間があるため、多くの乗客が列車を降りて、機関車の前で記念撮影をしていた。

再び列車が走り出してからビュッフェに行き、手ごろな食べ物を物色した。ここでの人気メニューはフランクフルト・ソーセージらしい。レンジで暖めた大きめのソーセージ2本にトマトソースとマスタードが付き、ついでに旗(確か米国旗だったと思う)がおまけされて、200円である。ソーセージを食べ終わってから再び車内を歩き回り、先頭車で土産物を物色し、最後尾の展望車で風景を眺め、たまに自分の座席に戻ってビデオを見たりした。車内ではいくつかのビデオ番組が放映されており、この列車を牽引している58654号機関車の映像や、姉妹鉄道である米国の何とか鉄道の機関車のそれ、そして後の方では、「機関車トーマス」等があった。車内は立野で満席に近くなったが、水前寺付近から下車する客が多くなり、終点の熊本では半分くらいになっていた。

 


◎熊本 1736→2007 西鹿児島  つばめ21  西鹿児島行L特急21M  7878両編成8号車=クハ787-9

国内では現役最古の機関車の牽く列車を降りた後、20分程の接続で、今度は1カ月余り前にデビューしたばかりの新型特急列車に乗り換えた。熊本1736発の、787系特急「つばめ21号」である。先頭の外観は仏国のTGVと似ており、塗色は黒っぽい銀灰色である。車内に入ると、まずデッキが異様に広いことに気付く。通常の特急列車のデッキと比べて倍以上の広さがあり、停車駅付近でも乗客が詰まることはなさそうだ。また、客室中央部に荷物置き場があり、座席上の荷物入れ(飛行機で使用している物と同じ型)に入りきらない大荷物を置くことができる。要するに人混みや荷物に邪魔されない、ゆったりとした旅ができるように工夫されている訳だ。各種の個室を用意していることもその一貫である。また、グリーン車と普通車の間の車両にはビュッフェがあり、気晴らしになる。

熊本で乗ったときには混んでいて座れなかったため、自由席車の荷物置き場に荷物の一部を置いて、次の八代までビュッフェでお茶をのむことにした。近くの車両の自動販売機で売っている缶飲料が150円であるにも関わらず、ビュッフェの紅茶(紙コップ入り)は300円である。弁当などの他のメニューも概ね高い。紅茶をのみ終わる頃、列車は八代に到着しようとしていた。そのため急いで普通車に戻る。八代で降りる人がいたため、少し空席ができており、窓側の席を確保する。車両の一番前で、デッキへのドアのすぐ後ろだが仕方がない。

すぐにまた乗客が乗ってきたが、その中に2年のS君がいた。通路側の席がまだ空いていたため、そこに彼が座った。ここまでの経路や今後の予定などを互いに報告する。その結果、明日の午前中の行動予定が同じであることが判明した。その他、雑談等で、乗車時間を費やした。また、客室一番前の座席の、扉の脇には何故か100Vの電源があったため、鹿児島までの間、そこに充電器を差し込んで置いた。

 

(宿泊)ビジネスホテルすずや

  「つばめ21号」が西鹿児島に着いた時には午後8時を過ぎており、駅の中には手ごろな食堂や弁当屋は見当たらなかった。結局、S君と2人で駅の周りを歩き回り、少し離れたところで「ほかほか弁当」を買って、それぞれの宿に別れた。今晩予約していたのは、駅前広場の脇にある「ビジネスホテルすずや」である。駅前でバストイレ付きにも関わらず素泊まり4017円であり、悪くない。部屋はかなり狭く、TVはコイン式だったが、寝るだけだから別に不都合はない。ベッドの上に座って弁当を食べた後風呂に入り、0時近くに消灯した。

 

平成4年(1992年)8月30日(日)

◎西鹿児島 516→627 指宿  指宿行923D  キハ58+65 3両編成中間車=キハ65 47

4時半頃に起床し、荷物をまとめて出発した。フロントは無人で、既に部屋代は前夜に支払ってあるため鍵だけ置いて外に出た。自動ドアの電源が切れていたため、手でこじ開けてまた閉めなければならなかった。5時少し前に西駅(地元の人は西鹿児島駅をこう呼ぶらしい)に行くとS君が既に来ていたが、改札に誰も居ないため暫く待つことにした。しかし、510頃になっても駅員は来ないため、そのまま改札を通り、指宿行き始発列車に乗車した。516の定刻に列車は発車したが、車内は余り混んでいない。外はまだ暗く、前夜の睡眠時間も短かったため、車内でうとうとしていた。

 

◎指宿 635→744 枕崎  枕崎行925D  582両編成先頭=キハ28-2413

指宿では数分の接続で枕崎行きに乗り換える。進行方向左手に見える開聞岳がだんだん近づいてきて、その内に真横を通り過ぎた。開聞岳は富士山型の目立つ形をしているが、そのほかに高い山は目につかない。のどかな景色の中を進んで行くうちに、列車は終点の枕崎に到着した。

折り返しの上り列車まで7分しかないが、外に出て駅前を眺め、また構内に戻って記念撮影をした。駅員の姿は見えない。ホームが1面あるが、駅舎寄りの線路は撤去されている。かつて枕崎から伊集院まで延びていた鹿児島交通の廃線跡と思われ、かなり先まで続いているようだ。

 

◎枕崎 751→904 指宿  指宿行936D  同編成最後=キハ28-2413

枕崎751発の指宿行き気動車に乗り、S君と後ろで運転機器を観察していると、車掌が話しかけてきた。「車内放送でもするか」とか「運転してもいいよ」などと冗談を飛ばしたり、地元の、魚とりや木の実の話をしたりが暫く続いた。車内が空いていたためか、指宿から乗務するらしい出勤途中?の運転士は、車掌の隣のロングシートで寝ていた。最初は乗客も少なく、車掌も暇そうだったが、そのうち、乗ってくる乗客が増えてきて、扉を開閉したり(沿線の駅が殆ど無人駅のため)乗車券を販売したりで、忙しく車内を動き回らなければならなくなり、会話は中断した。その間に、途中の西大山では、「日本最南端の駅」の標識(ホームの枕崎寄りにある)を撮影した。

ちょうどバックに開聞岳が入り、とても良い構図になる。西大山を過ぎて間もなく、列車は指宿に到着し、車掌と別れた。これから指宿名物の砂蒸し風呂に行く予定だが、S君はまっすぐ鹿児島に向かうということで、ここでまた一人になった。

指宿駅のコインロッカーで荷物を預け、駅前商店街を通り抜けて海岸沿いの道に出る。ここで右折し、かなり歩いて、ようやく市営砂蒸しの看板が見えた。指宿の駅から20分近くかかる。中に入ると10人ほどの列ができていて、受付を待っていた。場所や砂かけおばさんの人手が限られているらしく、空くまで切符は売らないらしい。結局40分近くも待たされて、切符を買い、浴衣を受け取って、更衣室で着替える。その後、切符を持って海岸に降り、そこにいる砂掛けおばさんが指示する場所に横になり、砂をかけてもらう。浴衣を通して温泉がしみこんで来て、思った以上に快適だ。頭上にはテントの様な屋根があり、直射日光は当たらない。そのまま10分ほど、波の音を聞きながら寝転がり、出るときは自分で砂をはねのけて起きあがる。そして、シャワーを浴びて砂を落とし、また着替えて終わりである。外に出ると、先ほどよりも列が長くなっていた。

 その後、指宿観光ホテルのジャングル温泉に行くつもりであったが、市営砂蒸しから意外に遠く、また、砂蒸しでの待ち時間が長かったため、外観を眺めただけで駅に引きかえした。炎天下を走って戻ったため、汗だくになったが、予定の列車には間に合い、コインロッカーから荷物を引き出して列車に乗り込んだ。

 

◎指宿 1117→1209 西鹿児島  なのはな6  西鹿児島行 快速3946D  2002両編成先頭=キハ200-1008

指宿1117発の西鹿児島行き快速列車は、最新型の真っ赤な200系気動車2両編成であった。博多・飯塚間の快速用に、2年ほど前に登場した車両だが、いつの間にか指宿枕崎線にも入ったようだ。車内は転換クロスシートを使用している。座席乗車率はおよそ80%で、やや混んでいた。快速のため、停車駅や単線すれ違いのための待ち合わせが少なく、朝乗った下り普通列車よりも20分ほど短い所要時間で、1209に西鹿児島に到着した。

 

西鹿児島では待ち時間が50分くらいあるため、手ごろな場所で食事をする事にした。朝には気付かなかったが、駅前広場に特急電車用の食堂車(サシ481)が1両置いてある。中がスパゲッティ専門店になっており、そこに入ることにした。ランチタイムのせいか「車内」は混んでいて、席が空くまで暫く待たされたが、注文をしてから数分で料理は出てきた。味と値段は悪くない。食事の後は駅前広場を歩き回り、市電を入れた駅前風景の写真を撮った。

 

◎西鹿児島 1301→1618 都城  (吉松経由)都城行630D  4→2両編成2両目=キハ53 101

吉松経由都城行きは気動車4両編成だが、後ろの2両は途中の隼人で切り離して国分行きになる。2両目の進行方向右側の席を陣取り、桜島の見える体勢を整える。鹿児島を出たあたりから列車は海岸沿いを走るため、桜島がよく見える。但し、噴煙?の為、頂上付近は隠れている。


やがて桜島が右後ろに消えて、しばらくすると隼人で国分行きを切り離した。そこから列車は肥薩線に入り、人里離れた山の中を走る。特に高地ではないが、左右とも森と川が見えるだけで、建物はあまりない。隼人から2つめの表木山で反対列車とすれ違う。ふと見ると先ほど指宿で別れたS君がその反対列車(隼人行き829D)に乗っていて、互いに手を振り、何か挨拶するが、ディーゼル音が大きいため、明瞭には聞こえない。すぐに列車は発車し、再び何もない山中を行く。吉松から吉都線に入り、えびのを通り、小林では急行えびの4号と行き違い。


 引きつづき吉都線を進む。途中から小雨が降り出してまた止むという天気になった。曇天のなかで、1618に都城に到着した。都城では新大阪行寝台特急「彗星」が発車準備をしていた。

◎都城駅 1640→1833 油津駅  油津駅行JRバス都城線

油津駅行きJRバスに乗り換えた。やや古めかしい、路線バス用の車両である。乗り込むと、周遊券か、と聞かれ、次いで、どこまで乗るのかと聞かれた。油津と答えるとそれを記録している。周遊券客の乗車区間を記録する規則があるらしい事を初めて知った。運転手のすぐ後ろの席に座って待っていると、時間が来てバスは発車したが、他に乗客は一人も居ない。都城の市内を走っている内にようやく、少しずつ乗って来たが、西都城駅を出てしばらくすると、殆ど乗り降りがなくなった。座席数に対する乗車率はせいぜい20ないし30%位だ。

油津までのバスの経路は(一部区間でわき道を迂回するが)主として国道222号線で、大隅半島の根元の山間部を走る。一部区間で道路改良(新線切り替え)工事をしているのが見えたが、まだ完成していないため、道路は狭く、カーブもきつい。しかも都城を発車して間もなく雨が降り出し、山道に入る頃から降りが強くなった。その中を運転手は器用に走り抜けており、運転席の横にあるダイヤグラムと時計を見比べてみると、3分ほどしか遅れていないことがわかる。1時間以上も山の中を走り続けるとようやく日南線の線路が見えてきて、すぐに飫肥(おび)駅前に停車する。やがて日南市内に入り、いくつかのバス停で乗客が降りて行った。油津駅入り口のバス停で、最後から2番目の乗客が降り、終点の油津駅に到着したときは、また一人になっていた。雨は止んでいたが、まだ曇っている。

 

油津では乗換まで30分以上あるため、駅の近くのアーケード街で夕食をとる事にした。最初にアーケードの中を端まで歩いて行って店を眺め、また戻ってきた。途中、文具店に寄り、ノートを1冊購入した。合宿ノート(合宿に出発する時に幾人かがこれを持って行き、旅先で日記風に記入して、途中で鉄研の誰かに会ったらそれを渡す、言わば鬼ごっこ的交換日記)にするためである。通常は出発前に用意する物だが、今回は合宿ノートを仕切っている人が欠席で、ノートが回っていないのではないかと言う噂を途中で聞いたため、一応、予備を用意する事にしたのである(後になって、合宿ノートが最初から正常に回っている事が分かった)。アーケード街の一番駅寄りに、たこ焼き屋?(一見したところファーストフードの店のようで洒落ている)があり、そこでチーズたこ焼きを注文する。最初はそこで食べるつもりだったが、出来上がるまでに時間がかかり、列車の時間が近づいてきたため、途中で持ち帰りに変更した。たこ焼きを持って駅に戻ったのは、発車時刻より10分近く前だった。

 

◎油津 1910→2020 志布志  志布志行355D  582両編成先頭=キハ28 2041

駅舎の中を横切って踏切を渡ったところにホームがあり、そこで列車を待つ。志布志行きの気動車(58系2両編成)は、1910の定刻通りに油津を発車した。既に日没後で天気も悪いため、外の景色は殆ど見えない。車内は、どこかに出かけた帰りらしい高校生?の集団が乗っていたが、途中で彼らが降りた後はがらがらになった。そこで、先ほど購入したたこ焼きを食べる事ができた。しかしその後は何もする事がなく、真っ暗な窓の外を眺めていた。油津から70分余り走って、終点の志布志に到着した。途中、対抗列車の遅れのためか、定刻の2020より3分ほど遅れていた。

 志布志到着が遅れたため、折り返しの上り最終列車まで3分近くしかない。下車印を貰って駅前の写真を撮るため、急いで改札を出る。上り列車の時刻を聞いておいて駅を出て行こうとしたため、ホームにいた乗務員が、「これ最終だよ!」とあきれたように叫んでいた。駅前には何もないが、駅舎は最近立て直したものらしく、白い三角屋根の洒落た建物だった。 


◎志布志 2026→2257 宮崎  宮崎行358D  582両編成先頭=キハ58 1520

写真を撮ってからすぐホームに戻り、車内に戻った。約1分後、2026発の宮崎行き上り列車に変身した気動車は、もと来た道を引き返し始めた。先ほどは陸側の席に座っていたが、今度は海側の席に移動した。しかし外が真っ暗な事は変わりない。ただ、たまに並走する国道220号線の街灯の明かりが見える程度だ。乗客は前よりも少なく、乗車率は20%未満だろう。宮崎に近づくにつれて僅かに乗ってくる人が増えたが、それでも大して変化はなかった。終点近くまで外は暗かったが、宮崎空港の滑走路の明かりらしきものが見えてからしばらく走り、南宮崎に近づいた辺りで、街の明かりが多く見えるようになった。大淀川を渡り、2257に宮崎に到着した。

 

◎宮崎 2317→235 臼杵  日南  博多行 急行502  ED76-87+127両編成 4号車=スハフ12 81

宮崎駅は県庁所在地の割に小さな駅で、時間も遅いためか開いている店もない。駅前では何もする事がないため、早めにホームに戻って列車を待つ事にした。宮崎2317発の上り急行「日南」の自由席に乗り、仮眠する事にした。しかし客車列車にも関わらず、車内の騒音が大きいため、すぐには眠れない。「日南」に使っている12系客車は分散電源方式のため一部の車両の下にディーゼル式発電機を備えているが、その音がかなり大きい。発電機のある車両は4号車と7号車であるため、できればこのような車両は避けたいが、禁煙車は4号車と7号車である。偶然の一致にしてはどうも不自然だ。列車の編成を決めた人は嫌煙者に何か恨みでもあるのだろうか。しかし発電機付きの車両でも慣れれば大して気にならず、熟睡とはいかないまでも寝ることはできる。ただ、このときは深夜に別の列車に乗り換えることになっていたため、熟睡できないことはかえって好都合かも知れない。

 

平成4年(1992年)8月31日(月)

まだ深夜の235に臼杵で下車し、ここで反対方向の下り「日南」を待つ。夜行列車に乗って、反対方向の列車に乗り移ることを鉄研では夜行列車のキックターンと称している。理想的なキックターンは、列車のすれ違う駅で乗り換えることで、そうすれば、余り快適でなく治安も悪い深夜の駅で時間を潰す必要がなくなる訳だが、「日南」は交換駅で客扱い停車をしないため、交換駅よりはるか手前の臼杵で待たなくてはならない。時刻表によると下り「日南」は臼杵発335だが、前の駅からの所要時間を考えると、恐らく320頃には臼杵に到着して、そこで暫く停車するものと思われる。いずれにしても1時間近くある。ガイドブックや駅前の地図によると、臼杵城跡が近くにある様なので、暇潰しに行ってみることにした。駅前から延びる道を5分ほど歩くと左側に木の生い茂った公園のようなものが見え、どうやらそれが臼杵城跡らしい。しかし手前に建物が並び、どこが入り口か分からない。しかたなく、また駅に引き返して、列車を待つことにした。

 

◎臼杵 335→916 隼人  日南 西鹿児島行急行501レ普通2425レ  127両編成4号車=オハフ12 67

下り急行「日南」は318頃入線したため、待合室から車内に移動した。335に発車し、同じ線路を鹿児島方面に引き返す。この列車で隼人まで行くことになっており、9時前まで寝ることができる。しかし、臼杵で散歩したためか、なかなか眠れなかった。6時近くになると外は明るくなった(曇っていたが)。宮崎からこの列車は普通列車扱いになり、通勤客らしき人がたくさん乗り込んで来て、乗車率は60%前後になる。2人分の座席を占領して爆睡している長距離客と、きちんとした背広姿の通勤客が対照的だ。隼人には定刻通り916に到着した。

 

◎隼人 933→1033 吉松  吉松行824D  キハ52+532両編成先頭=キハ53 102

隼人駅の待合室には小型文庫があり、暇潰しになる。暫くそこにいてから、933発の吉松行きに乗車した。前日の午後と同じ形式の車両で、同じ線路を吉松まで行く。天候も似ており、陽がさしたかと思うと少し雨が降るという不安定な天気だった。前日は都城まで行ったが、この日は吉松で乗り換える。吉松はかつて鉄道の街として栄えたということであり、その名残か、駅前広場にはSLの動輪が飾られている。

 

◎吉松 1046→1134 人吉  えびの2号 博多行急行5612D  3両編成中間車=キハ65 20

急行「えびの2号」に乗り換えて、人吉まで、矢岳越えの線路を通る。スイッチバックやループ線と、25パーミルの急勾配があり、博多から鹿児島までのメインルートが人吉経由だった頃から、一番の難所だったところである。しかし景色はよく、真幸(まさき)付近からは、遥か下の方に、えびの市の市街地を見渡すことができる。


矢岳を過ぎていくつかトンネルをくぐると、右下の方に一瞬だけ、大畑(おこば)付近のループ線が見える。しかし、本当に一瞬だけで、例えカメラを構えていても撮影は困難である。また、ループ線がかなり遠いため、予めそこに線路が見えることを知らなければなかなか気付かない。列車によっては車内放送でその辺りの解説をするそうだが、この日の「えびの2号」ではそのような放送はなかった。ループ線の中のスイッチバックという全国でもただ一つの大畑駅を過ぎると、まもなく人吉に到着する。

 

人吉ではくま川鉄道に乗り換えるが、次の列車まで1時間位あるため、散歩や温泉入浴をする事にした。市内にはいくつか、温泉共同浴場があるが、やみくもに歩いてもなかなか見つからない。ようやく一つ見つけたが、昼の時間帯は営業していなかった。結局、郵便局で観光地図を貰い、人吉中央温泉に入った。中は大して広くないが、余り汚くなく、球磨川を模したという流れる?浴槽は凝っていた。泉質は天然ラドン温泉で、疲れに良いらしい。昼間だったせいか、がらがらに空いていた(最初と最後を除いて1人だけだった)。その後、残り時間も少ないため、駅前の土産物屋をのぞいて時間を潰した。やはり、球磨焼酎が多い。

 

◎人吉 1241→1323 湯前  湯前行13D  KT104単行

 くま川鉄道の人吉駅は、JRの駅の構内に隣接しており、跨線橋を通って行き来できる。くま川鉄道の切符売場は、ホームの階段下にあり、そこで湯前までの乗車券(硬券)を購入して1両編成のレールバスに乗り込んだ。車内は学校帰り(まだ夏休みのはずだから、クラブ活動の帰りと思われる)の高校生で混雑しており、座席数に対する混雑率は150%を超えていた。人吉を1241に出発し、しばらく走るとJR肥薩線から分岐する。その後、平坦な線路をまっすぐ、湯前に向かう。すぐ近くを球磨川が流れているはずだが、車内からは良く見えない。免田辺りで、高校生らが多く下車し、乗車率は70%程度になった。更に、小さな無人駅にいくつか停車しながら、1323に湯前に着いた。

折り返し列車がでるまでの約30分の間、駅の周りを散歩することにした。駅前から200m程の道路が延びていて、国道219号線とぶつかるところがT字路になっている。駅前広場からT字路周辺までは、一応、商店街になっているが、かなり寂れている。反対側は、コンクリートブロックを敷いたイベント用の広場になっている。宝くじ協会の銘板が貼ってあるから、そこの寄付で作ったものかも知れない。広場の端はプラットホームになっていて、臨時の出札所があった。何か行事があるときはそちら側にも列車のドアを開けるのだろう。

 


◎湯前 1355→1439 人吉  人吉行14D 同車

列車の時刻が近づいたため、レールバスの中に戻ったが、なかなか運転手は現れない。待っていると、発車時刻を1分ほど過ぎてから、ようやく駅の事務所から出てきてのんびりと運転室に入った。折り返し人吉行き気動車は定刻の1355より2分ほど遅れて発車した。途中の駅で乗ってくる乗客が居たが、あまり混んでいない。空いていたので運転席のすぐ後ろの席を確保し、運転操作を見物した。電車の運転と比べて、ギア操作?の動作が1つ余計に加わる。典型的な田園地帯を走り、1439に人吉に戻ってきた。ワンマン列車のため、列車を降りるときに、運転手の横の運賃箱に切符を入れる。

 

◎人吉 1449→1610 八代  八代行868D  キハ402両編成 キハ47 61

10分の接続で、八代行き普通列車に乗り換える。人吉を出てから、列車は球磨川沿いを走り、たまに手漕ぎの船が川を上っているのが見える。暫くすると前方に観光川下りの船団が見えたため、カメラを用意した。しかし間もなく列車は長いトンネルに入り、抜けた後は、船団が見えなくなっていた。トンネルを通っている間に船を追い越してしまったらしい。川下りの終点の球泉洞を過ぎた後も列車は球磨川沿いを走り、1610に終点の八代に到着した。

 

◎八代 1636→1820 博多  つばめ18  博多行L特急18M  7837両編成5号車=サハ783-102

特急「つばめ18号」で博多に向かう。29日に乗ったつばめは最新型の787系を使っていたが、この列車は783系の通称「ハイパーサルーン」という車両である。外観としては、ステンレス製で、窓が大きいことが特徴である。また、デッキが車両の中央にあり、1つの車両に2つの客室があるという、極めて珍しい列車だ。先頭車は、運転席後ろの窓が広くとってあり、前方の展望が楽しめるようになっているが、その部分は全て指定席になっている。性能は新型「つばめ」とほぼ同じで、一部区間を時速130kmで走行する。室内は、各車両がデッキで2つに分割されているためこじんまりとしており、考えようによっては落ちついていると言える。普通車を含む各座席には音響装置があり、手持ちのヘッドフォンを差し込めば音楽を楽しむことができる。

八代を出た「つばめ18号」は、熊本に停車した後、平野を北にひた走ることになる。この区間は路盤の整備が完了しているらしく、時速130kmで走行している様だ。(自由席の座席から速度計が見える訳ではないが、原則として下り線の脇に立っている距離標識と、ストップウォッチを使えばおよその速度は計算できる。)久留米を過ぎた辺りから線路の周囲の住宅が増えてきて、それと同時に列車の速度も僅かに落ちた。途中、西日本鉄道の線路と並走する区間があり、西鉄特急らしき車両が見えた。博多に着いたのは1820で、外は暗くなりかけていた。

博多駅は、最近改装されたのか、駅構内の雰囲気が近未来的である。在来線の駅の配置そのものは、強いて言えば横浜駅のそれと似ており、ホームの下を横切る自由通路に面して改札があり、その横には自動券売機が配列されており、少し離れた所に旅行センター・みどりの窓口があるが、それぞれのデザインが工夫されている。どの様に工夫されているかといっても表現に困るが、とにかく近未来的なのである。ただ配色は、黒と、JR九州の社色である赤を組み合わせたものが多かった。珍しいので暫く構内を散歩する。

 

◎博多 1900祇園  西唐津行563M  1036両編成  クハ103-1517

博多での宿は、時刻表の広告に出ていたカプセルイン博多(最寄り駅は地下鉄祇園)を考えていたが、まだ予約をしていなかったため、地下鉄の入り口付近の公衆電話から予約をする事にした。幸い空きがあり、早速そこに行くことにした。地下鉄のホームに行き、止まっていた電車に乗った。博多1900発の筑肥線直通西唐津行きで、車両はJR103系である。夕方のラッシュが始まっており、その中で大荷物を持って突っ立っているのはかなり場違いな気がする。宿の最寄り駅である祇園までは1駅のため、すぐに車外に出ることになった。祇園で降りた乗客は余り多くない。この区間なら歩いても大したことないからかも知れない。 

時刻表の広告に出ていた通り、祇園駅の3番出口から地上に出ると、正面は国体通りという名の広い通りで、そこをまっすぐ歩くと間もなく、カプセルイン博多の看板が見える。入ってチェックインする。鍵を受け取って6階に行くとカーテンの仕切があり、そこから室内に入ると、2段のカプセル寝台が並んでいる。鍵の番号の記されたベッドはすぐ見つかり、そこに入る。カプセル寝台そのものにはロックがなく、入り口がカーテンで仕切られているに過ぎない。受付で貰った鍵は荷物を入れるロッカーの鍵で、ロッカーは寝台の脇にある。寝台内には、TV、ラジオ、「室」内灯、受付への電話の設備がある。試しにTVをつけてみる。受付でチェックインした時に、鍵と共に、新聞のTV欄・天気欄のコピーを受け取ったから、それが役に立つ。細かいところで気が利いている。但し、九州では都市によってTVのチャンネルが異なるらしく、TV欄のチャンネルの数字の所に、どこそこは何番といったものがいくつも小さな文字で列挙されていて、見にくかった。

 

◎祇園天神  地下鉄1501

荷物を置いて夕食に行くことにした。折角博多に来たのだから、ここは名物の屋台で博多ラーメンを食べなければなるまい。祇園から再び地下鉄に乗り、2つ先の天神に向かう。博多名物の屋台が多く出店しているという中州界隈の最寄り駅は1つめの中州川端だが、夕食の前に西日本鉄道の写真を撮りたいと思ったため、西鉄福岡の接続駅である天神へ行ったのである。ちなみに、このとき乗った電車は福岡市交通局の車両だった。

地下鉄を降りて暫く歩いて、西鉄福岡駅に入る。駅の構造全体としては、規模は違うものの阪急の梅田駅と似ているように思う。夕方の混雑がまだ続いており、構内を通行する人の流れは滅多に切れない。そのあいだを縫うようにして、改札の外から電車の写真を撮った。端から見たらかなり異様かも知れない。

 

西鉄の駅から外に出て、今度は中州方面に向けて歩くことにした。距離にして約1kmはあるが、地図や案内板を頼りに西大橋を渡って中州地帯にたどり着いた。さて屋台はと探してみると、15軒くらいあるが、金魚すくいやどじょうすくいの屋台が多く、ラーメンの屋台は1つしかない。中州といっても広いから、他の場所にも屋台があるのだろうが、ガイドブックに書かれていた「博多には240250軒の屋台があるといわれ・・・」という文からは想像がつかない。しかたなく、中州の反対側に回って別の屋台街を探すことにした。東中島橋付近にも屋台が多いと書かれていたので、そちらに向かって、川沿いを歩く。川沿いには市営の駐車場が並んでおり、その近くには、運転代行業の人達が集まっている。付近には飲み屋等が多いため、それらの需要は高いようだ。風俗関係の店も多いらしく、途中でその呼び込みらしいおじさんに声をかけられた。振り切るのに苦労する。

東中島橋付近の屋台も、期待したほど多くはなかったが、西大橋付近よりはラーメンの屋台が多い。その中から選ぶことにして、結局「張り出し長浜横綱」という屋台に入った。隣にある「元祖長浜横綱」の「支店」らしく、従業員が頻繁に行き来している。どちらも長浜ラーメンを中心とした屋台である。店内にはいたるところに名刺が貼ってある。見てみると地元に務めている人の物が多く、恐らく、常連の人が置いて行くのだろう。ラーメンを注文して出てきたラーメンの特徴は、いわゆる豚骨の白っぽいスープと、素麺のように細い麺である。味はなかなか良い。同じ屋台には、東京から出張してきたらしいサラリーマンの人と、福岡に出向していて常連になっているらしい人の2人連れが来ていてビールと一緒にラーメンその他を食べている。2人は屋台の人と頻繁に会話を交わしており、自分一人だけ黙って食べていてもつまらないから、ときどき会話に加わった。その会話の間に屋台の人に聞いた話では、長浜ラーメンというのは博多ラーメンとは異なるらしい。いくつか長浜ラーメンの特徴を言っていたが、やはり、博多ラーメンと比べてみないとよく分からない。屋台の雰囲気が良かったため、替え玉をする事にした。これは、スープはそのままで、麺だけを追加するもので、比較的安価である。替え玉をやる人は結構多いらしい。中には替え玉の回数の記録に挑戦している人もいるらしい。

満腹になって歩いて宿に戻る。2km近くあるが、道順は単純なので、全く迷わなかった。宿の風呂(何故かまたラドン温泉-泡の風呂や冷水浴、サウナの設備があった)に入り、疲れをとって、早めに寝ることにした。

 

(宿泊) カプセルイン博多

 

平成4年(1992年)9月1日(火)

5時半頃起床して、宿を出る。宿は大博通りと国体道路の交差点の近くにあり、昼間はかなり交通量が多いと思われるが、まだ朝早いため静かだ。地下鉄もまだ走り始めたばかりの時間であるため、本数が少ない。博多駅まで地下鉄で1駅区間の距離でもあるし、この際、歩くことにした。祇園の交差点を右に曲がると、後は博多駅までまっすぐ進めば良い。列車の時間まで余裕があるので、ゆっくり歩いた。

 

◎博多 633→702 原田  熊本行925M  4753両編成最後=クモハ475-24

博多からの下り列車は、608発と633発があり、どちらに乗っても次の乗換駅で同じ列車に接続する。結局633発に乗ることにして、それまで駅構内を散歩することにした。改札の前で、誰か知り合いでも降りてくるかと思って立っていると、同期のO君が出てきた。604着の「あかつき」で着いたところで、唐津の知り合いを訪問してから別府に向かうそうだ。暫く話してから、O君は地下鉄乗り場の方へ行った。その際、彼に合宿ノートを手渡した。予備版合宿ノートを作ってから約35時間ぶりに人手に渡ったことになる。

O君と別れた後で改札を通り、633発の下り普通電車で原田に向かった。3両編成の車内は思ったよりも乗客が多く、座席の半分くらいが埋まっている。博多を出発してすぐ、進行方向右手に竹下車両区がある。


まだ朝早いためか、特急用の車両が何編成も止まっているのが見えた。その後、福岡近郊の住宅地を走り抜け、その密度が薄くなり始めた頃、列車は原田に到着した。原田の駅には既に、若松行きの赤い客車列車が止まっていたが、発車まで6分程あるため、一度改札を出てみることにした。下車印を貰って外に出たが、駅前には殆ど何もない。小さな売店が1つある程度だ。何か朝食を買おうと思ったのだが断念し、列車に乗り込んだ。

 

◎原田 708→914 若松  若松行2836→434  DD51-876+504両編成最後=オハ50 25

若松行きのこの列車は、今では珍しくなった客車列車である。赤い50系客車の4両編成で、DD51型ディーゼル機関車が牽引する。車内はがらがらに空いていた。客車特有の衝撃を合図に原田を発車した列車は、右にカーブして鹿児島本線から分岐し、山地に入って行った。列車は山間部の小さな駅にいくつか停車し、僅かに乗客が乗ってくる。しかし周囲には大きな集落はなく、ただ、森だけが見える。

ようやく山地を抜けた辺りで、列車は桂川に停車した。ここでは対向列車待ち合わせのため8分停車する。下り原田行きの列車は既にとなりのホームに停車していた。向こうの列車はすぐに発車する予定である。2日前にS君と会ったときに、彼がこの列車に乗る予定であることを聞いていたから、跨線橋を駆け上がって隣のホームに行き、発車直前の客車の窓から顔を出しているS君を見つけることができた。話しをしている時間はないから予め書いておいたメモを手渡す。S君の他にも何人か鉄研の人が乗車しており、いきなり現れた上級生に驚いている様子だった。桂川から3つめの新飯塚駅からは炭坑の名残を示すボタ山の跡があり、いかにも筑豊という雰囲気であった。

飯塚・新飯塚では、通学生を中心に、かなり多くの乗客が乗って来て、直方まではかなりの立ち客がいた。しかし直方を過ぎると、まだ通勤時間帯であるにも関わらず、かなり空いてくる。鹿児島本線と交差する折尾で、残った乗客の半分近くが降り、海辺の工業地帯をのどかに走って、914に終点の若松に到着した。

若松駅構内で機関車の切り離し作業を見物してから、駅前に出た。広いが閑散とした駅前広場の角に9600型蒸気機関車(19633号)が置いてあり、その背後の海峡に若戸大橋が見える。戸畑への渡し船の発着所が橋の下の辺りにあると思われるため、そちらに向かって歩くことにした。事前の調査では駅から遠くないと考えていたが、実際には乗船場まで750mあり、かなり歩くことになる。

 


◎若松港 930→934 戸畑港  戸畑行 北九州市渡船事業所  第十七わかと丸

ようやく乗船場につき、船に乗り込むことにした。特に切符は売っておらず、乗り場の改札のような所に料金箱があり、乗客はそこに運賃20円(時刻表に掲載されている交通機関の中で最も安い運賃と思われる)を投げ込んで乗船する。船名は「第十七わかと丸」で、1987年製、定員は100名程度であったと思う。はじめは空いていたが、やがて人や自転車がどんどん乗り込んできた。船内が混んできた頃になってからタラップを外して出発した。出発して間もなく、船は若戸大橋の下をくぐり、橋の北側に出てから、そのまま橋に沿って航行する。橋の南側は戸畑から若戸に向かう船の航路になっており、橋の中央付近で同じ様な船とすれ違った。すぐに正面に陸地が近づいてきて、再び橋の下をくぐると、戸畑の船着き場に到着した。若松から僅か3分半の航海であった。戸畑の港は、駅から450mの距離であり、大荷物をかついで歩かなければならなかった。

 


◎戸畑 948→956 黒崎  にちりん8  博多行5008M  4854両編成3号車=モハ485-198

予定していた戸畑発941の快速には乗れなかったが、7分後の 「にちりん8号」に乗ることができ、それで黒崎まで行った。短距離でも気軽に特急に乗れるのは周遊券の強みである。数分で黒崎に到着し、予定の接続列車に間に合った。

 

◎黒崎 1004→1015 東水巻  直方行631D  672両編成先頭=キハ66-9

黒崎から直方行きの普通列車で、東水巻まで行く。この区間はいわゆる「裏街道」と呼ばれるところで、折尾で立体交差する鹿児島本線と筑豊本線の間を結ぶ渡り線である。かつては時刻表の地図にも載っていたが、1992年の時刻表地図では省略されている(が実際には線路は複線で残っていて頻繁に列車が通る)。以前は黒崎から中間まで停車駅はなかったが、筑豊線からの分岐点の近くに東水巻駅ができ、最近、立体交差の折尾駅から150mほど離れたところにもう一つの「折尾駅」が設置された。鶴見線と南武線の浜川崎駅と同じ様なものらしい。

(※編注:平成4年の旅行当時の折尾駅は鹿児島本線と筑豊本線が立体交差する構造で、両線を結ぶ渡り線がいわゆる「裏街道」路線だったが、平成末期から令和の始めにかけて大改造が行われ、令和4年(2022年)に駅ホームの立体交差や渡り線が解消された。)

使用車両は67系気動車2両編成で、筑豊地区以外にはないものである。2両ユニット編成で、転換クロスシートを使用しているのが特徴である(67系の作られた当時、特急用以外で転換クロスシートを使用している車両は殆ど無かった)。

東水巻駅は、比較的間の空いた上下線の線路の間に、縦長三角形のホームと、その底辺に接した駅舎が挟まれた構造になっている。駅舎は洒落たログハウスで、駅前にある説明板によると、九州で最初のログハウス型駅舎であるそうだ。

 


◎東水巻 1022→1026 折尾  若松行434D  402両編成先頭=キハ40 2103

若松行で、1駅先の折尾に戻る。鹿児島本線と筑豊本線は90年も前からここで立体交差しており、煉瓦積みの橋梁にその伝統が見られる。

 

◎折尾 1028→1103 博多  にちりん10号 博多行L特急5010M  4814両編成4号車=クハ480-1

筑豊線ホームから階段を上って鹿児島線ホームに出て、2分接続の 「にちりん10号」に乗り換えた。外観は、JR九州の社色である赤に塗装されて、斬新な印象を与えるが、内装は古めかしく、座席も未だに非リクライニングの回転クロスシートであった。最近、続々と新型車両を登場させている九州の中では、かえって貴重な存在かも知れない。

 


◎博多 1149→1316 天ケ瀬  ゆふ3  別府行特急83D  キハ1855両編成4号車=キハ185-5

博多で40分余りの接続時間の間に構内のロッテリアで昼食を済ませ、1149発の特急「ゆふ3号」に乗車した。車両は、JR四国から購入してきて改装したばかりの185系気動車で、先月から「ゆふ」と「あそ」に使用されているものである。外側の塗色は、四国の社色である水色から九州の赤を基調としたものに変わり、車内も、座席の色の変更や電話室の設置などが行われているため、イメージが異なる。博多を出た列車は、朝と同様にすぐ竹下気動車区の横を通過するが、先ほどと比べて止まっている車両は少ない。久留米から久大本線に分岐し、森の中を走る。この付近の森には平成2年の台風の際になぎ倒された木々が未だ処理できずに残っていると聞くが、車窓から見る限りは、そう言った傷跡は分からない。日田を過ぎてしばらくすると車窓に玖珠川の流れが見え始め、いくつかの橋梁を渡る度に左右が入れ替わる。1316に「ゆふ3号」は天ケ瀬に到着した。

 


天ケ瀬の温泉街は玖珠川の両側に軒を連ねており、温泉街のすぐ後ろは山といった感じである。天ケ瀬駅のホームは温泉街よりも若干高い位置にあり、下り線路を踏切で渡り、階段を数段降りたところに駅舎がある。その真上には国道のバイパス線の高架橋が通っている。

天ケ瀬の名物は河原に点在する露天風呂であり、次の列車までの1時間で、そこに行ってくることにした。それらは駅からあまり遠くなく、徒歩で5分から10分の所に点在している。ただ、橋や国道からはわかりにくいところが多いため、適当なところで川岸に降りてみる。最初に入ったところは駅からだいぶ歩いたところで、目隠しのためか屋根が付いている。かなりぬるかったが暫く入っていた。少しして、3人連れが近くまできたが、偵察に来た女性が先客のいることを確認すると、去って行った。5分くらい入ってから、駅の方向に移動して、また別の風呂に入る。こちらの方は最初のものと比べてかなり熱かった。更に駅の方向に戻り、3つめに入る。そこには先客(男性)が一人居て、少し、話をした。この近くの人らしい。ただ、その人には連れが居て、その連れに急かされてすぐに出て行った。その後暫く一人で浸かっていたが、列車の時刻まで20分程となったため、河原から上がって橋の上から河原の風景写真を撮った。

晴れているためかなり暑く、風呂上がりにも関わらずすぐにあせだくとなる。早めに駅に戻って涼むことにした。缶飲料を1本購入して改札で周遊券を見せてホームに上がる。特に待合い室はなく、冷房もないが、山の影になっていて直射日光は照らない。ホームはがらんとしていて、自分の他に、おばあさんが一人ベンチに座っているだけであった。

 

◎天ケ瀬 1421→1521 由布院  由布院行1855D  582両編成先頭=キハ28 2112

由布院行き普通列車(キハ58+28の2両編成)は学校帰りの黒服集団で混雑していた。日田辺りから乗ってきたものと思われる。冷房の設備がないようで、車内は暑かった。豊後森の辺りで空いてきて、座ることができた。列車は1521に由布院に到着した。

ここで次の列車まで28分の待ち時間がある。その間に特急「ゆふいんの森3号」が通るため、それを撮影することにした。由布院に到着した特急列車はキハ183系4両編成で、この春まで「オランダ村特急」として使われていた車両を改造したもので、先に造られた「ゆふいんの森」車両と形が異なるため、通称「ゆふいんの森Ⅱ世」と呼ばれている。これを反対側のホームから撮影し、「ゆふいんの森」のホームに駆けつける。この列車にはN君らが乗っているという話を聞いていたからである。行ってみると、先頭車の扉の所で彼らが待っており、発車までの短い時間、話をする事ができた。すぐに「ゆふいんの森3号」は発車し、彼らとは後ほど別府で再会することになる。

 


◎由布院 1648→1750 大分  大分行2851D  同編成後車=キハ58 624

ここまで乗ってきた列車がそのまま大分行きになるという話を聞いたため、そのまま車内にいたが、何とそれは1549発ではなく、もう1本後の列車だった。結局、ホームの反対側を発車した1549発大分行きを見送る羽目となり、由布院駅の待合い室で1時間後の列車を待つことになった。駅舎は最近(平成212月)改築したもので、有人駅だが改札ラッチが無いのが特徴。構内にはギャラリーがある。それを観て暇を潰し、1648発の大分行き(先程と同編成)で大分に向かった。大分到着は1750である。

 


◎大分 1800→1809 別府  にちりん48号 博多行L特急5048M  4856両編成4号車=モハ484-277

10分の接続で、1800発の 特急「にちりん48号」で別府まで行く。車内に誰か居るだろうと思って探してみると、2年のY君が居た。もっといるかと思ったが、他に会員はいなかったため、2人で、別府駅からタクシーに乗り、15分くらいで合宿地の鶴見園グランドホテルに到着した。

 

(宿泊)鶴見園グランドホテル

 

 宿に着いたのは1830頃である。かなり立派な建物で、ロビーも広い。入り口には普段の合宿と同様に、「歓迎・鉄道研究会御一行様」の札が、他の団体の札と共に掛けてある。中に入ると、係の人も心得たもので、すぐに鉄研の部屋に案内してくれる。部屋に荷物を置いて、会った人に挨拶をしていると、間もなく宴会が始まる時刻となった。

宴会が行われた広間は異様な程に広かった。詰めれば100人以上は入れそうな広間の中央にぽつんと30席余りが並んでいる。膳には10皿程度の料理が載っている。いつものように全体委員の音頭で乾杯し、10分程経ってから、1年生から名簿順に、ここまで来た経路を説明する。実の所、鉄研の合宿に於いて宴会以外にすることはこれだけである。順番に説明を聞いて、どこかで誰かと会ったりした場合に、その人も一緒に飲むことになる。経路を聞いてみると、簡単なものから複雑なものまで千差万別である。単純なものでは、「ここまでの経路はのぞみ・ひかり・にちりんです。以上!」というものがあり、それに対して、 特急「富士」一本できたという人も現れた。複雑な経路の場合は説明に3分くらいかかるものもあり、場合によっては一部省略することもある。また、複雑すぎて途中で忘れてしまった人や、メモを見ないと説明できない人もいる。ひねくれた経路では、東北の民鉄・JRを乗り潰してきた人や、韓国を見物した後大韓航空で福岡入りした人もいた。また、余りに特異な経路のためか、来る途中で誰とも出会わなかった1年生が2名ほどいた。

宴会の後は、更に飲む人、麻雀をやる人、ビデオを観る人、風呂に行く人などのグループに分散した。取りあえず麻雀をやることにして、部屋に戻る。以前と比べ鉄研に於ける麻雀人口が減少しており、交代要員は殆どない。日付が変わってから、この宿の名物である「別府極楽8湯」に入った。別府の8地獄巡りを模したもの。令和3年に旅行記録を追記するにあたって鶴見園グランドホテルの情報を検索したが、既に廃業していて、施設内の写真等は残っていなかった。

 

平成4年(1992年)9月2日(水)

平成4年当時に作成した旅行レポートは9月1日までの分しか残っていない。ここから先は、写真を基に記憶を呼び起こしながら作成。

合宿の中日は由布院と別府市内観光をした。同期と一緒だったと思うが、観光先での集合写真が無く、同行者は不明。

 

◎別府 804→906 由布院  ゆふ2号 博多行特急82D  1854両編成4号車=キハ185-1

 駅前の道を、由布岳を正面に見ながら進む。薄曇りだったが由布岳は頂上まで見渡すことができ、やがて晴れてきた、およそ1.5kmの道のりで、由布岳の麓の金鱗湖に到着。金鱗湖の静かな湖面に由布岳が映り込む。




湖畔に佇む共同浴場「下ん湯」にしばし入浴。下ん湯の前には湯溜まりがあり、そこで洗濯するのどかな光景も見られた。




目の前を10人乗りくらいの辻馬車が通り過ぎる。由布院の駅名板には、「いで湯と辻馬車 由布岳の見える駅」と表現していた。

復路は川沿いを少し迂回し、九州自動車歴史館の前を通りながら駅に戻った。

 


◎由布院11151225 大分  大分行2837D

◎大分 12381247 別府  にちりん26号 博多行L特急5026M

事前の予定表では由布院駅発1025または1150のバスで鉄輪に移動することになっていたが、別府駅に停車中の「ゆふいんの森」キハ71系の写真があるので、上記のルートで別府に戻り、5分後に到着したゆふいんの森1号を撮ったものと思われる。九州ワイド周遊券では九州内特急の自由席には乗車できるが、全席指定のゆふいんの森には乗車していない。当時の別府駅には高架2面4線の中間に留置線が存在したが、令和5年にgoogle map で見ると、撤去されて空きスペースになっている。

この後は別府の地獄めぐりをした。使用済みの別府地獄めぐり共通券が残っていて、白池地獄、山地獄、海地獄、竜巻地獄、血の池地獄の順で撮影した写真が残っている。この時に紺屋地獄の別府温泉保養ランド(泥湯)に入浴した記憶があるが、入口等で撮影していないので、どの順番で訪問したか定かではない。

 


(宿泊)鶴見園グランドホテル

宿に戻って、合宿2泊目。2泊目の宴会でも、その日の行動を報告しているが、その後の過ごし方については記録に残っていない。

 

平成4年(1992年)9月3日(木)

◎別府 910→1002 中津  にちりん12  博多行L特急5012M  4856両編成 先頭6号車=クモハ485-1

合宿解散後、中津に向かい、福沢諭吉旧居を見学した。鉄研のメンバーが何人か一緒だったと思うが、定かではない。駅からの往復の時間を考えると、見学時間は1時間弱であったと思われる。 



◎中津 1159→1243 別府  ハイパーにちりん19号 大分行L特急5019M  7834両編成2号車=サハ783-1


◎別府 1300→1454 阿蘇  あそ4号 熊本行特急74D  1853両編成先頭3号車=キハ185-15

別府に取って返して阿蘇に向かった。途中の宮地では、SLあそBOY8620SLの方向転換の場面に遭遇した。 


◎阿蘇駅 1520→ 草千里  九州産業交通バス

阿蘇山西までバスで移動してロープウェイで登って阿蘇山の火口を見物する予定だったが、この時期は火山活動が活発で、火口周辺が立入禁止となっていた。そのため、草千里で下車して、ここにある阿蘇火山博物館を見学し、草千里ヶ浜の後方に聳える阿蘇山を遠方から眺めた。草千里には馬が放牧されている。 


◎草千里→1746 内牧温泉   九州産業交通バス

草千里から、この日の宿である内牧温泉にバスで移動して宿泊。

 

(宿泊)五岳ホテル

  

平成4年(1992年)9月4日(金)

内牧温泉621の始発バスに乗る予定だったが、寝過ごしたのか、予定を変更している。五岳ホテルから内牧駅までは4km以上を徒歩移動した。バスが無かったわけではないと思うが、内牧駅からの次の列車まで時間があったのと、天気も良かったからだと思う。

 

◎内牧 804→918 熊本  熊本行732D  キハ40+583両編成最後=キハ58 44

 

熊本市内観光の前に往復する予定だった三角線の乗車は取りやめ、水前寺公園から熊本市内観光を始めることにした。駅周辺を1時間ほど見物した後で熊本駅に戻り、SLあそBOYの出発前風景を見る。


 

◎熊本 1119→1132 水前寺  水前寺行2705レ DE10+7834両編成

この当時、豊肥本線は熊本川を含めて全線非電化だったが、L特急有明が8往復熊本から水前寺まで乗り入れていた。熊本・水前寺間は普通列車で全駅停車。783系特急電車にDE10型ディーゼル機関車を増結して客車のように牽引する運用。列車番号も熊本・水前寺間は客車列車と同じ数字だけの番号。この当時の時刻表で豊肥本線の客車列車は、あそBOYと有明のみ。

水前寺公園を見物してから、熊本城も見学した。天守閣にも入場している。小泉八雲旧居前も通り、この間に熊本市交通局の路面電車を全線完乗した。立ち寄った上熊本駅は木造駅舎が残る。 







◎熊本 1636→1013 東京  はやぶさ 東京行寝台特急4  242515両編成12号車=オハネ25 1001

寝台特急はやぶさで帰京。開放型B寝台と同額の寝台料金で利用できるB個室ソロを確保していた。ソロの室内設備として次のようにメモしていた。BGM6チャンネルのうち4チャンネルが使用可。ボリュームの調整もできる。目覚ましデジタル時計、スピーカー、換気扇スイッチ、室内灯、読書灯(明るさ調整可)、暖房スイッチ(強・弱・切)、非常用ボタン、カーテン、灰皿、折り畳みテーブル、屑物入、便所使用知らせ灯、鏡(30cm×40cm)、ハンガー1つ、冷風口×4、スプリンクラー、絵画、鍵(非自動)、着替え用足置き台、浴衣、アームレスト、スリッパ。


共有スペースとしては、食堂車とロビーカーを連結する豪華編成。夕食と朝食で食堂車を利用したと思うが、注文したメニューは記録がない。 


平成4年(1992年)9月5日(土)

せっかくのB個室ソロなのと、周遊券が都区内発着であることから、終点の東京まで乗車している。朝になってロビーカーの車内を撮影しているが、逆光でうまく映っていない。 




◎東京 1036→1142 東逗子  久里浜行985S

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