1925年04月 最南端から最北端へ100年前の机上旅行 4日目 - 函館発稚内行急行1列車

  100年前の時刻表を使った机上旅行です。鉄道省線最南端の志布志から最北端の稚内を目指す架空旅行記の4日目は、函館発稚内行の夜行急行で、ついに終点の稚内に到着します。


大正14年(1925年)4月4日(土)

3日目

深夜1時過ぎの長万部で補助機関車を連結したのではないかと思うが、時刻表上は通過扱い。深夜の寝台からは様子が窺えない。発車の際に汽笛が2回鳴ったような気がするが、これは本務機と補機で加速のタイミングを合わせるものだったのだろう。ここから山線区間に入り、カーブを走行している感覚はある。函館では積雪も無かったが、客車の灯りが僅かに照らす線路周辺は、雪が深いようだ。

未明の倶知安で給炭を兼ねてか7分停車して421発。昨夜の函館はそれほど寒くなかったが、今朝はだいぶ冷え込み、早朝の外気は氷点下になる。峠を1つ越えた小沢から更に峠を越えて銀山を通過する辺りで夜が明けると、周囲は一面の銀世界で、雪山に囲まれた峠を、列車は黒煙を上げて越えていく。山間部を抜けて余市を543に発車すると、左手遠方に石狩湾が見えてくる。ここから更に峠を抜けると小樽に625着。幕末から船の行き来があって、早くから港湾が整備され、大正12年(1923年)には小樽運河も完成している。ここで補助機関車を切り離して、小樽632発。

南小樽から複線区間に入る。空知地方で産出される石炭の輸送需要が高く、設備増強が続いている。朝里手前から銭函までは石狩湾の海岸に沿って走る。海岸を離れて石狩平野の雪原を横切り、札幌に近づいた辺りで、根室から函館まで長距離運転する急行4列車とすれ違う。札幌には720着。札幌では駅弁が販売されている。明治時代の創業当時の駅弁は、幕の内弁当にあたる「上等弁当」とすし、おにぎりの3種類だったが徐々に種類が増え、大正12年(1923年)に発売した「石狩鮭めし」は焼き鮭の身をそぼろにして白米にのせたもの(後に改良を重ねて令和の時代までのロングセラーになる)。また、札幌では明治30年代から販売されている名物の「柳もち」もある。小豆のこしあんを小判型にまるめた中に白い餅の入った生菓子なので、後で食べることにしよう。札幌では6分停車して726発。寝台の解体を待ってから弁当を広げるが、ロングタイプの座席なので食べにくい気がする。

岩見沢は室蘭本線や幌内線の分岐駅。運炭列車が行き交っている。美唄や砂川にも停車して、産炭地への支線が分岐する。複線区間は美唄までだが、その先でも複線化工事をしている様子。

列車はしばらく石狩平野の雪原を走っていたが、深川を発車してしばらく経つと、右手に石狩川が近づき、短いトンネルを抜けると神居古潭の渓谷を通過する。旭川には11時ちょうどに着く。

旭川で12分停車して機関車を付け替え。旭川でも駅弁の販売があるが、朝食が札幌の駅弁だったので、今回は買わなかった。1112に発車して、宗谷本線に入る。この日の旭川の最高気温は2.5℃までしか上がらず、4月だというのに小雪がちらつく。

新旭川を通過すると、石北線の線路が分かれていく。上川との間を1日4往復のローカル線だが、遠軽まで抜けて湧別線と接続する構想があるという。

旭川を出てしばらくは平野を走っていたが、1153に蘭留を出ると、峠道に入って周囲も雪深くなる。ここは塩狩峠で、明治42年(1909年)に汽車の連結器が外れて客車が坂を暴走する事故があった。峠を越えて和寒からまた雪原が広がる。

通りがかった車掌に運転状況を聞くと、この程度の雪なら運行に支障なく、ラッセルが出るほどでもないという。今夜は事前に稚内駅近くの旅館を予約しているが、予定どおり着けそうだ。列車給仕から電報頼信紙を貰い、1列車で向かっている旨を記入して、料金・チップと共に渡す。次の電報取扱駅である士別から発信されるとのこと。大都市の駅なら自動電話(この年の10月に「公衆電話」に改称)があるが、宗谷本線内の駅に設置されているかどうか分からない。あったとしても電話交換手を介して旅館の電話に繋がるまでに発車時間になってしまう恐れがある。その点、時間表には電報取扱駅が明記されているので、電報取扱駅に着く前に車掌か列車給仕を通じて駅に託せば車内に居ながらメッセージを送ることができるので、かえって便利である。

名寄に10分停車して1330発。この列車は稚内まで直通だが、急行運転は名寄までで、この先は各駅停車となる。名寄を出て間もなく、左側に天塩川が寄り添う。混雑が一段落した食堂車で、氷混じりにゆっくりと流れる天塩川を眺めながら昼食をとる。美深辺りから、線路両側の山が近くまで迫ってくる。紋穂内で函館行の2列車とすれ違う。

音威子府までは天塩川沿いに北上していたが、ここで天塩川から分かれて北北東に峠を越えて浜頓別でオホーツク海側に抜ける。天塩川沿いに幌延に抜けるルートの方が入植者の人口が多いが、浜頓別方面に広大な土地を有していた政治家の影響もあり、浜頓別経由が先行開業した。幌延方面のルートも工事が進められていて、現在は音威子府から分かれる天塩南線が問寒別まで開通している。川沿いの不安定な地盤で、全国から駆り集められた「タコ労働者」と呼ばれる低賃金の労働者を酷使した突貫工事で、犠牲者も多いという。

周囲には雪の積もった森が続き、駅付近だけ人家が点在する。そのひとつである敏音知を1610に出たところで、列車給仕が回ってきて電報を渡される。宿からの返信だ。夕食の用意ありとのことで、ありがたい。

浜頓別からオホーツク海側に出るが、線路は海岸線からは離れたところを通る。その代わり大沼などの湖沼が左手に続き、雲間から現れる夕日が凍った沼を照らしている。

芦野からオホーツク側を離れて、小石で普通列車とすれ違ってから、夕暮れの峠道に入る。周囲に人家の灯りが見えない、積雪に覆われた森林の中を進む。車掌が回ってきて、間もなく終点稚内到着を告げると、暗闇の先の前方に街の灯りが見えてきて、稚内に2018到着。最南端の志布志から3日14時間38分かけて、最北端の駅まで乗り通した。

終点稚内は大正11年(1922年)開業。頭端ホームで、その長さは道内最長とのこと。その他に機関庫や客車留置線、貨物ヤードもあり、構内は広い。稚内から浜頓別方面の宗谷本線とは別に天塩北線も抜海を経て兜沼まで大正13年(1924年)6月に開通したところ。

2年前の大正12年(1923年)に稚内から樺太の大泊を結ぶ稚泊航路が開設されたが、稚内駅から稚内桟橋まで15町(約1.6km)あり、航路利用者は人力車や乗合馬車で移動する必要がある。また、築港工事がまだ途上のため、桟橋から小型砕氷蒸気船に乗り、沖合で稚泊航路の大型船に乗り換える必要があるそうだ。稚内2230発の稚泊航路まで2時間ほどだが、移動時間を考えると大して余裕がないため、航路利用客は早々に駅を後にしていた。

改札を出ると宿の人が迎えに来てくれていた。無事に最北端の町の宿に到着して、部屋に荷物を置き、夕食をいただく。動かない畳の上での食事は、3日前の朝に志布志を発って以来だ。食後は早めに休んで、明日は朝食前に稚内桟橋辺りまで散歩しよう。前夜2200に大泊を出た連絡船が600に稚内に着く予定である。



机上旅行の記録は以上です。

最後に、経費の計算をしてみます。


(運賃計算)

連絡船の鉄道部分の距離を合算して運賃計算して通行税を加算し、そこに連絡船の運賃を加えます。また、東京市内の品川から日暮里までは山手線経由の運賃で品川・万世橋間と上野・日暮里間に乗車できる特例があります。昭和の頃には東北本線経由の乗車券で常磐線経由の列車が利用できる特例がありましたが、大正期の時間表に特例の記載が見当たらなかったので常磐線経由の距離で計算しました。

志布志 → 都城   25.5哩

都城 → 吉松   38.3哩

吉松 → 門司  198.3哩

(この間、関門航路)

下関 → 品川  698.5哩

品川 → 日暮里   13.6哩

日暮里 → 青森  463.9哩(常磐線経由)

(この間、青函航路)

函館桟橋 → 稚内  438.9哩

鉄道部分距離計  1877.0哩  → 鉄道部分税抜き1等運賃 64円41銭

関門航路運賃  3等のみ 10銭

青函航路1等運賃  5円25銭

通行税 1等200哩以上  50銭

省線税込運賃 計  70円26銭


万世橋 → 上野駅 市電  7銭


(料金計算)

    寝台は最も高価な下段で計算しています。

吉松 → 門司 1等急行料金  2円

下関 → 東京 1等特急料金  7円50銭

下関 → 東京 1等下段寝台料金  7円

上野 → 青森 1等急行料金  3円

上野 → 青森 1等下段寝台料金  7円

青森 → 函館桟橋 1等寝台料金  1円50銭

函館桟橋 → 名寄 1等急行料金  3円

函館桟橋 → 稚内 1等下段寝台料金  7円

料金 計  38円

交通費 計 108円33銭


切符の形態についての情報がありません。各駅とも通常想定される行き先への硬券乗車券は常備していた筈ですが、当時の志布志駅に稚内までの1等乗車券など常備していなかったでしょう。『時間表』の営業案内では、省線内であればいかなる駅へもいかなる経路でもご希望のとおりに発行するとしているので、おそらく補充券のような形状の様式にオーダーメイドで作成していたのではないかと思います。

営業案内によると、片道乗車券の通用期間は発行当日起算で、100哩まで2日、100哩毎に1日加算となっているので、連絡船を除く志布志・稚内間1877哩で20日間ということになります。一方で、途中下車については後世よりも厳しく、1200哩を超える場合でも5回となっています。そうなると、今回の旅行の場合、門司、万世橋、青森、函館の長時間乗り継ぎの際に改札を出て散策したとすると、残りあと1回。数分の停車時間があっても気軽に改札を出て駅を眺める訳にはいかなかったようです。


交通費以外の出費の主なものは食費になります。

駅弁が並等鮨20銭から上弁当35銭、サンドイッチ40銭までの範囲。食堂車の定食は、九州や北海道の洋弁当が50銭、本州の洋定食は朝90銭、昼1円20銭、夕1円50銭、青函航路の夕食は和食膳が60銭、洋食だと1円10銭です。今回の行程で試算すると、例えば以下のとおりです。

(1日目)

 昼食:食堂車 洋弁当 50銭

 夕食:鳥栖駅のかしわめし弁当 35銭

 夜食:食堂車でサンドウィッチ 40銭

(2日目)

 朝食:食堂車の洋定食 90銭

 昼食:食堂車の洋定食 1円20銭

 夕食:食堂車の洋定食 1円50銭

(3日目)

 朝食:仙台の駅弁 35銭

 昼食:食堂車でカレーライス 35銭

 夕食:連絡船内で和食膳 60銭

(4日目)

 朝食:札幌の駅弁 35銭

 昼食:食堂車の洋弁当 50銭

ここまでのメインの食費は7円になりますが、デザートや飲み物は別途になります。例えば炭酸水やラムネなどのソフトドリンクは25銭、ビールは中瓶なら45銭です。洋酒はだいぶ高価で、フランス産の赤ワインが2円、シャンペン中瓶だと8円50銭以上とされています。仮に1~3日目の夕食にビールを1本、1~4日目の昼食にソフトドリンクを付けると、2円35銭。門司のバナナや札幌の餅菓子などを買っていくと、食費は10円を超える程度でしょうか。好みによりかなり変動します。


今回はカメラを持っていないのでフィルム代は考慮せず、その他は電報代や列車給仕へのチップくらいと思われます。

前泊・後泊の旅館代を含まない交通費・飲食費・雑費で120円か少し上回る程度を考えられます。ただし、この金額には前泊・後泊の宿代は含まれていません。そして、自宅から出発地である志布志へ、そして稚内から自宅へ戻るまでの交通費。宿代もかかります。仮に行き帰りでも1等寝台を使うと2倍プラス宿代で300円近くにかるかも知れません。行き帰りを3等座席にしたとしても、200円近くになりそうです。

想像の旅なら実際の旅費はかかりません。昔の時刻表に関連情報を調べながら、楽しみました。


(参考資料)

鉄道省運輸局編纂『汽車時間表』大正14年4月号 日本旅行文化協会(復刻版)

三社合同『公認汽車汽船旅行案内』大正12年7月号 株式会社旅行案内社(復刻版)


宮脇俊三編著『時刻表でたどる鉄道史』1998 JTB

かわぐちつとむ『食堂車の明治・大正・昭和』2024グランプリ出版

久保田 博『鉄道重大事故の歴史』2000 グランプリ出版

佐々木 冨泰/網谷 りょういち『事故の鉄道史』1995 日本経済評論社

今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 全線全駅全廃線』2008~2009 新潮社


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