1925年04月 最南端から最北端へ100年前の机上旅行 2日目 - 特別急行2列車で東京へ
100年前の時刻表を使った机上旅行です。鉄道省線最南端の志布志から最北端の稚内を目指す架空旅行記の2日目は、特別急行2列車を東京まで乗り通し、山手線未開通部分は市電で上野まで移動して、常磐線の夜行急行に乗り継ぎました。
大正14年(1925年)4月2日(木)
岡山を530に発車して間もなく夜が明ける。たまに薄目を開けて夜明けの水田を眺めてまた寝たりしていたが、7時のモーニングコールで起き上がる。
次の姫路は713着718発。後の山陽電気鉄道となる神戸姫路電気鉄道が大正12年(1923年)に姫路駅前に乗り入れたところ。姫路城天守閣は車窓から見えるだろうか。周囲に高い建物は無かったようだが、停車中は駅舎が視界を塞ぐので、到着前や発車後に左車窓に目を凝らす。
姫路の次は1時間ほどで神戸だが、この間に食堂車で朝食とする。朝の洋定食は90銭で、6時から9時までの営業。定食内容は、果物・オートミール・鮮魚又は魚のフライ・ハムエッグス・トースト・コーヒー又は紅茶となっている。姫路を出て40分程、明石を通過して舞子から須磨にかけて、列車は海岸付近を通る。右車窓に、明石海峡を挟んで淡路島も見える。舞子浜は明治天皇が7度も訪問された景勝地で、明治33年(1900年)に兵庫県で最初の都市公園が開設された。
寝台の使用時間は20時から翌朝8時までなので、ちょうど朝食の間に寝台が解体されて、食堂車から戻ると座席仕様になっていた。
神戸、三宮と続けて停車して、淀川の長い鉄橋を渡ると大阪に到着して6分停車。駅前には阪急電車が乗り入れて京阪神間を頻繁運転しているが、省線の東海道本線は電化されていない。また、高架化前なので、地上のホームを汽車のみが行き交う。
京都でも5分停車。京都から大津まではトンネル続きの新線区間。旧来は京都を出ると、今は奈良線の一部となった稲荷まで南下してから25‰の急勾配と旧逢坂山トンネル、連続するカーブを経て府県境を越える難所だったが、大正10年(1921年)に東山トンネルと新逢坂山トンネルが開通したので、京都・大津間は10.1哩(マイル)から6.1哩に短縮して勾配やカーブも緩和された。しかし電化はしていないので、京都発車直後の長いトンネルでは、どうしても蒸気機関車の煙が車内に入り込んでしまう。気密性の低いデッキには立たずに、車室内で窓をしっかり閉めてやり過ごすしかない。この2つのトンネルでデッキにいた乗客が機関車の煤煙で意識を失って転落する事故が続発していたことを、少し後の大正15年(1926年)2月1日付け東京朝日新聞が報じて注意を促している。
大津から1時間近く走り、米原1105到着直前の彦根付近では、近江鉄道と並走する。近江鉄道の彦根・高宮間は3週間前に直流600Vで電化したばかり。近江鉄道の時間を見ると、ちょうど2列車の米原到着5分前の1100に彦根に着く電車があるので、タイミングが合えば、真新しい木造車体の電車と並走する可能性があり、右車窓の線路に注目する。
関ケ原を越えて大垣で1分停車。ここでは揖斐川電気会社が運営する養老鉄道の電車が桑名と揖斐に向けて発着している。その沿線の養老公園や霞間渓が、桜の名所として時間表でも紹介されている。花期は4月中旬とされているので、まだ少し早いかも知れない。
岐阜で1分、名古屋では5分停車。岐阜・名古屋近郊には美濃電気軌道や名古屋鉄道などが開業しているが、省線に並行する区間は開通していないので、特急の車窓からは見られない。名古屋1242発なので、そろそろ昼時。食堂車のランチタイムは11時から14時までで、昼の洋定食は1円20銭。内容は、魚又は麺類料理・肉又は鳥・野菜・果物・紅茶、となっている。
豊橋に1350着だが、同時刻に豊川鉄道(後のJR飯田線)の三河川合行が発車する。豊川鉄道ではこの秋に電化と電車運転が予定されているので、汽車運転が間もなく見納めとなる。豊橋・浜松間では浜名湖を長い鉄橋で横断する。
浜松では5分停車。隣接する遠州浜松駅では遠州電鉄の遠州二俣行が発車待ちをしている筈だが、間には駅舎がある。天竜川や大井川を渡って静岡は1分停車で1552発。富士川を渡り、富士を通過する頃には富士山が近づく。この日は降雨が無く、富士山はよく見える。最高気温も20℃近くまで上がり、前日の鹿児島地方よりも暖かく、この付近はトンネルも無いので、展望デッキから眺めるのも乙だ。
沼津から御殿場までは、25‰の登り勾配が続く山越えルート。勾配解消のため長大トンネル(丹那トンネル)を掘削して熱海・小田原を通るルートが大正7年(1918年)に着工していて、大正14年完成予定だったが、トンネル掘削中の湧水や崩落事故も発生していて、完工時期の見通しがたっていない。まだ当面は御殿場回りが続きそうだ。
勾配対応のため、沼津で5分停車の間に後部に補助機関車を連結して1648に発車。連結された補助機関車は、大正12年のデビューと同時に山北機関庫に配属された9900形(後のD50形)。西日に照らされる富士山を左車窓に眺めながら峠を越える。前夜のセノハチ越えは深夜だったが、御殿場越えは日没前なので、1等乗車券であれば展望デッキから補機の力走を見物したい。富士山を背景に黒煙を上げて力行する補機は映えると思う。
時刻表上では国府津まで停車駅は無いが、御殿場付近で峠を登り切るため、御殿場で運転停車をして補機を切り離す。
この先は国府津付近までトンネルも続くので、車内に戻って食堂車で夕食とする。夕定食の時間(ディナータイム)は17時から始まっている。夕定食は1円50銭。コース内容は、スープ・魚又は肉類・肉又は鳥類・野菜料理・プリング・果物・珈琲又は紅茶、となっている。
国府津付近からは関東大震災の被災地である。国府津から分岐する熱海線は震災で長期不通となり、国府津から小田原・早川までは震災のあった大正12年(1923年)中に復旧したが、真鶴まで全線復旧したのは1年半後の大正14年3月12日なので、この旅行の僅か20日前である。なお、熱海線は同月25日に熱海まで延伸開業している。
国府津3分停車で1847発。山越えから一転、国府津を出ると平坦な区間に入る。相模湾沿いのルートだが、海岸からは若干離れている。馬入川(相模川)の鉄橋は河口から1哩ほど上流にあり、震災で倒壊したので架け替えられた。藤沢付近では震災のときに最大5~6mの津波があったという。
横須賀線と合流して大船通過。大船では大正2年(1913年)に鯵の押し寿司を発売して好評とのことだが、この列車は停車しないので、また別の機会に。東海道線の東京・国府津間と横須賀線は電化工事が進められている。震災で計画に遅れが生じたが、架線柱も建ち始め、年末には完成するらしい。
この辺りの区間では自動閉塞と三位式機構の腕木式信号機が導入されている。従来の複線区間では双信閉塞という非自動の閉塞方式だった。隣接する駅や信号所同士で連絡を取り、1つ先の駅や信号所を先行列車が通過したとの連絡を受けて次の列車の進入を許可するもので、運転本数を増やすためには信号所を増設する必要があり、列車の通過確認を目視に頼るもので、安全性に劣っていた。自動閉塞では、軌道回路で列車の有無を検知して人の手に頼らず信号表示を行うので、設備投資は要るが安全に運転本数を増やせる。そのため、電車区間や幹線に導入が進められているところ。また、一般的な腕木式信号機は、水平だと「停止」、斜め45度下がると「進行」の2種類の表示だけだったが、この区間に導入された三位式腕木信号機では、腕木が水平だと「停止」、斜め上向きが「注意」、真上に向いているときが「進行」を意味する。「進行」と「停止」の間に「注意」があると、先行列車があるときに段階的に減速できるため、高速運転にも都合が良い。夕暮れ時だが、他では見られない珍しい信号機なので、展望デッキから観察する。
国府津を出てからしばらくトンネルが無かったが、戸塚・保土ヶ谷間で久しぶりに通過したのが清水谷戸トンネル。東海道本線は全通後も様々な改良に伴う経路変更があったが、上り線の清水谷戸トンネルは明治20年(1887年)に横浜・国府津間が開通した当時のままである。(この旅行の100年後の令和7年(2025年)時点では国内現役最古の鉄道トンネルとなっている。)
だいぶ日が暮れてから横浜に停車。横浜市は関東大震災で中心部が広範囲で延焼し、市街地北端の横浜駅2代目駅舎も大きく焼損した。焼け残ったレンガ造の外壁に仮設の屋根を掛けて仮営業しているというが、夜8時近いので、はっきりとは見えない。半年ほど前に発表された横浜復興計画によると、横浜駅は神奈川・保土ヶ谷間の旧短絡線ルートの平沼駅があった辺りへ移転する予定とのことなので、仮営業状態が続いているのはそのためだろうか。新たな横浜駅からは、伊勢山を地下トンネルで抜けて弘明寺方面への路線も計画され、将来は更に逗子や鎌倉への延長構想もあるそうだ。
横浜を1953発。桜木町からの京浜線電車が横浜で合流して、横浜からは複々線となる。東京・桜木町間の京浜線電車は上下線とも12分間隔で運転されていて、横浜を5分前に発車した上り電車の東京着は特急の6分後なので、中間の蒲田前後で追い越すことになる。京浜線の電車は、大正10年(1921年)製造開始のデハ33500系と、大正13年(1924年)製造開始のデハ63100系で、いずれも車体長16mで3ドアの4両編成で、2,3等車共ロングシートである。電車区間でも自動閉塞が採用されているが、こちらの信号機は最新型の色灯式信号機で、赤、橙、緑の3つのレンズ内の電球が点灯することで「進行」「注意」「停止」を指示する仕組み。
省線の京浜線とは別に、私鉄の京浜電気鉄道も東海道本線から付かず離れず高輪まで並走する。こちらは全長15mの単行運転のみだが、大正13年(1924年)に登場した51形は、日本初の本格的半鋼製車両となっている。
山手線と合流して品川を通過。さらに新橋付近から高架線に上がり、東京府庁舎横を過ぎると、24時間近い特急乗車も間もなく終点。東京には2030到着。
東京駅のホームは、皇居側の駅舎に沿って電車ホームが2面、列車ホームが2面あり、列車発着時の行事や大規模な送迎を想定して、ホームの幅は格段に広い。八重洲側には車両基地が広がっていて駅舎は無い。大正3年(1914年)開業の東京駅舎は、震災でも目立った被害が無かった。全幅300mに及ぶ赤レンガ張り3階建の巨大な東京駅は、南側が乗車口、北側が降車口となっていて、これらとは別に中央口(皇室専用)の近くに電車口がある。特急で着いたら前方に進んで、北側の降車口に向かうことになる。車の迎えがある人や、タクシーに乗り換える人の中には、車寄せまで手荷物を赤帽に運んで貰っている乗客も見られる。
東京駅から上野駅へ移動するにあたり、この間の高架線が開通して山手線電車が環状運転を始めるのはこの秋からなので、4月時点では東京市電での移動が一般的だ。また、既にタクシーが東京駅での構内営業を始めている。一方、省線のみ乗り継ぐなら新宿経由で大きく迂回することになる。上野2200発の急行に乗りたいので、以下のように乗り継ぐことは可能である。
○東京 2044→2113 新宿 中野方面中央本線
○新宿 2118→2151 上野 山手線
上野での接続時間が短いが、新宿経由で上野に回っても一応間に合う。
しかし、志布志からここまで蒸気列車に1昼夜ほぼ乗り通しで、この後も車中2連泊なので、銭湯に寄りたいところ。東京駅付近は「一丁ロンドン」と呼ばれる、近代的なビルが建ち並ぶオフィス街なので、少し離れた万世橋辺りで銭湯を探すことにする。
◎東京 2044→2049 万世橋 中央線
中央線の電車は、大正初期には単行(1両編成)だったのが頻繁運転により利便性が上がり、利用者も増えた結果、4両編成になっている。1両あたりの長さは16mほどで、3ドアロングシート。中央線の電車は数年前に集電方法がトロリーポールからパンタグラフに変わった。
ところで、東京・上野間の鉄道省線が未開通の中で乗車券の特例があり、東海道本線大井町以西と東北本線川口町以北又は常磐線三河島以東相互間の山手線経由乗車券を所持している場合に、山手線の代わりに品川・万世橋間と上野・赤羽間は追加運賃なしで乗車できる。
万世橋は明治45年(1912年)に中央線の延伸に伴って開業した駅で、東京駅の小型版といった印象の壮麗な赤レンガ駅舎だったが、震災で焼失したため簡素な駅舎になってしまった。万世橋駅のある神田須田町は旧来から人口の多い区域なので、ここで銭湯を見つけて入浴。ただし、上野までの移動時間を含めて1時間ほどなので、入浴時間は短時間しか取れない。震災後に建替えられた東京市内の銭湯は、タイル張りの近代化したものが多く、入浴料は6銭。
◎万世橋 → 上野駅前 東京市電 上野線
省線乗継の旅だが、ここだけ市電でショートカット。東京市電は明治44年(1911年)に市営化されてから数年間に延伸が続き、営業距離は大正半ばに130km近くになった。その後は物価高騰の中で延伸は滞ったが、混雑対応のための車両増備が続いた。震災で大きな被害を受けたが9か月余りで全線復旧。震災前は慢性的な満員状態だったのが、震災を機に郊外への移住が進んだ結果、市内線の混雑は多少緩和されている。
神田川を渡った万世橋電停から市電に乗って上野駅へ向かう。市内均一区間の運賃は7銭。乗車してすぐ車掌から切符を買う。市電の軌道から300mほど東に省線の高架線が建設中で、この秋に開通する予定。間を街の建物が遮るが、交差点を通過する際に右を見ると、工事中の高架線が周囲の家の明かりに照らされて浮かび上がる。
上野駅は震災で焼失した後、木造の仮駅舎での営業となっている。地平の櫛型ホームは列車線3面に山手線ホームが付属しているが、上野公園側に高架ホームの設置工事が進んでいる。東京の北の玄関はこの先どのように整備されるのだろうか。上野から浅草へは東洋初となる地下鉄の計画もあるという。
◎上野 2200→翌1515 青森 常磐線経由青森行 急行801列車
上野発青森行の急行は東北本線経由、常磐線経由、奥羽本線経由が各1往復運転されている。上野発東北本線経由青森行の普通列車も2往復運転されている。
これらのうち上野2200発の急行801列車は常磐線経由。客車は9両編成で、先頭から荷物車1両+郵便車1両+1等座席・寝台合造1両+2等寝台1両+2等座席車1両+食堂車1両+3等座席車3両となっている。大正8年(1919年)に製造が始まった22000系客車と思われる。先ほどまで乗車していた下関・東京間特急2列車よりも一回り小さい17m級の木造客車だが、鉄道国有化後の明治末期から大正初期に製造された鉄道院基本形客車と比べると20cmくらい拡幅されている。
既に夕食と入浴を済ませているので、早めに寝台に入ることにする。1等車は寝台と座席の造号車で、寝台は片側通路で4人個室が3室、座席はロングタイプ11席。
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