1925年04月 最南端から最北端へ100年前の机上旅行 1日目 - 志布志から矢岳越え、関門航路、特別急行2列車

 手元に時刻表があると、実際に出掛けなくても乗継経路を組んで机上旅行を楽しめます。それは現在の時刻表に限らず、過去の時刻表から、当時の旅を想像することもできます。

令和7年(2025年)4月1日にJTB時刻表が創刊100周年を迎えた機会に、創刊号である大正14年(1925年)4月号(当時は「汽車時間表」)の復刻版を参照して、鉄道省線の最南端から最北端までの早乗り継ぎの経路を組んでみました。 →経路を紹介した過去記事はこちら

大正14年4月号の路線図に載っている省線の駅では、志布志線の志布志が最南端、宗谷本線の稚内が最北端です。省線以外も含めると、南には南薩鉄道と大隅鉄道、沖縄県営鉄道の路線があり、北には樺太鉄道がありましたが、今回は鉄道省線に限定して、志布志から稚内までとしました。当時の稚内駅は現在の南稚内駅付近にありました。

乗継経路を組んだところで、当時の情報を色々と集めて、旅日記風にまとめました。

当時の物価を考える指標として、大卒サラリーマン初任給は月給50~60円くらい、米の値段は1升(約1.5kg)で50銭、タクシー初乗り運賃は1哩(マイル)60銭だったそうです。JTB時刻表の前身である汽車時間表は1冊50銭でした。鉄道省線の通行税込み初乗り運賃は2哩まで3等6銭、2等13銭、1等20銭でした。(鉄道の距離の表示が「km」になったのは1930年からで、1哩は約1.6km)

志布志から稚内までの運賃料金は、3等座席車のみだと概算で29円ですが、夜行3連泊なので、奮発して1等寝台利用だと概算で109円、食堂車の食事などを含めると130円くらいかかりそうです。初任給2か月分を超える贅沢旅行になります。

「時間表」にはカメラの広告も掲載されています。8円50銭程度の初心者向けから90円以上の高級品まで扱われていました。ただし、後にフィルムカメラの主流となる35mmサイズの普及のきっかけとなったライカは、この春にドイツの見本市に出展されたばかりで、まだ普及していませんでした。今回、カメラを持参する(という想定にする)か迷いましたが、遠距離移動のなかで機材やフィルムが嵩張ること、関門海峡や津軽海峡周辺に撮影禁止エリアもあることを考慮し(本当の理由は、この時代の写真で著作権フリーなものが見出せなかったため)カメラを持たない旅行にしました。

この頃の鉄道は、関東大震災からの復興と同時進行で新線の開業も相次ぎ、車両も国産化と大型化が進み、自動連結器への一斉取替もこの年7月の実施を控えていました。車体の鋼製化はまだ設計段階で、この頃は優等列車も木造車でした。供食などのサービスも鉄道省主体で全国一律のレベルアップを図っていました。後年から見ると活況だった印象です。

前置きが長くなりましたが、そのような時代背景を踏まえて、志布志から稚内までの机上旅行に出掛けてみます。なお、当時の時間表の表記は12時間制で、午前は細字、午後は太字で区別していましたが、以下の旅行記では24時間制で表記しています。


大正14年(1925年)4月1日(水)

◎志布志 540→740 都城  都城行2列車

志布志駅は乗車2日前の3月30日に開業した。志布志線が大隅松山から延伸して開業した真新しい終着駅だ。現在は終着駅だが東西に延伸する計画があるらしく、志布志線の開通と同時に吉松機関庫志布志分庫として機関車の配置も始まったところで、賑わいが感じられる。この日の鹿児島は朝の気温が13℃あり、前日よりだいぶ暖かくなった。

駅長が信号を確認して右手を高々と上げて「出発オーライ」と喚呼すると、汽笛一声、上り始発列車が発車する。(「出発オーライ」が「出発進行」になったのは1940年代以降のこと)

志布志線の列車は1日6往復の運行。2等車と3等車を連結している。大正時代に入って機関車の国産化が進み、8620型や9600型の各地への配置が進んでいるところだが、ローカル運用には、国有化前の九州鉄道時代の輸入機関車が残っていたと思われる。客車はほとんどが17m級の木造客車だった。3等車の車内はボックス席だが、2等車は窓を背にしたロングシートとなっている。立ち客がいない場合にはロングシートの方が足元が広いからのようだ。3等のボックス席は板張りなのに対して、2等車の座席にはクッションがある。


◎都城 803→1020 吉松  吉松行263列車

日豊本線は、西都城から霧島神宮経由国分までのルートが開通前で、後の吉都線の経路で吉松までを結んでいた。急行列車は運転されておらず、別府以北で一部の駅を通過する列車が1往復だけあったが、それ以外は各駅停車のみ。本州へ向かうのに吉松行では逆方向のように見えるが、都城から門司までの乗継経路を大分回りと吉松回りで比較したところ、大分回りより吉松回りの方が距離が短く、鹿児島本線には急行列車も走っている。吉松で乗換となるが門司には大分経由より3時間ほど早く着くことから、こちらを選択した。都城・吉松間の列車にも2等車が連結されていた。高原や小林町辺りでは左手に霧島の山並みが迫る。

当時の鹿児島本線は海岸ルートに未開通部分があり、人吉経由である。日豊本線と鹿児島本線は、吉松で接続している。接続駅である吉松には大きな機関庫がある。鉄道関係者が多く居住し、鉄道の町と言われている。


◎吉松 1116→1920 門司  門司行 急行2列車

鹿児島本線の門司・鹿児島間には急行が2往復設定されていて、そのうちの1本に接続した。列車は6両編成だが、このうち荷物車と郵便車が各1両、食堂車が半両であり、座席車は3両半(1等が食堂車と合造部分、2等と3等が1両半ずつ)しかない。

急行を牽引する機関車は8620形だが、吉松・人吉間の矢岳越えと呼ばれる山岳区間では、この区間専用に動輪5軸の4110形が人吉機関庫に配置されていて、補助機関車として後押しをする。この間は急行も5駅連続停車して、表定速度も前後の区間と比べると半分以下になる。吉松から1駅目の真幸はスイッチバック駅。発車する時は一旦バックして引上げ線に入ってから前進して登り坂に挑む。ここから次の矢岳までの区間が日本三大車窓の1つと言われている。本来なら、えびの高原を見下ろせる絶景となる筈だったが、時々雨の降るあいにくの空模様で遠景が霞む。矢岳の次の大畑はループ線の途中にあるスイッチバック駅。ループ線をほぼ一周して引上げ線に突っ込んでからバックで大畑駅に到着する。人吉方から連続勾配を登ってきて給水中の鹿児島行63列車とここで行き違い。大畑を出ると人吉まで坂を下る。

人吉で補助機関車を切り離して1302に発車すると、八代まで1時間ほどノンストップ。球磨川沿いの風景を眺めながら昼食としたい。人吉駅では2年前の大正12年から弁当販売を始めたので、窓越しに購入できる。駅売りの弁当は、上等弁当35銭、普通鮨が20銭、サンドイッチが40銭など種類ごとの全国統一価格があり、おかずの品数の目安が示されている中で、地域の名産を取り込むことが推奨されていた。品質についても鉄道省が利用者アンケートや抜き打ち検査により品質の維持向上を図っている。また、急行2列車は洋食堂車を連結していて、福岡県の共進亭が運営していた。時刻表掲載の九州線の列車食堂内の洋食弁当が50銭。1等座席車との合造車のため食堂座席数は12席と規模は小さいながら、車内の厨房で調理したものを販売していたようで、ビュフェのようなイメージか。駅売りの弁当との価格差も小さいので、メニューを比べて選びたい。

八代からは比較的平坦な区間で、この先、熊本、鳥栖、博多、小倉で5~7分の停車時間がある。荷物や郵便物の積み下ろしの他、機関車の給水または機関車の付け替えのためと思われる。給炭に時間がかかることや車軸の過熱を考えると、同じ機関車が給水だけで鹿児島から門司まで通し運転するには無理がある。7月の一斉取替までは、ねじ式連結器のため、数分の停車時間での機関車付け替えは大変だっただろう。

九州では「かしわめし」という鶏の炊込ご飯に鶏そぼろや錦糸卵、海苔を並べた弁当が各地で販売されていて、鳥栖駅で大正2年(1913年)に販売開始したものが最初と言われている。鳥栖で7分停車するので、早めの夕食用に買うことにする。食後の弁当空箱は、座席の下に寄せておけば列車給仕が片付けてくれる。

九州随一の商業都市である博多では5分停車。その次に停車する折尾は日本で最初の立体交差駅。明治28年(1895年)に東西を走る鹿児島本線と南北を走る筑豊本線(当時は九州鉄道と筑豊興業鉄道)が交差する構造の駅となった。明治の面影を残しつつ、駅舎は大正5年(1916年)に建替えられた。折尾でもかしわめしをホームで売っている。

終点の門司(後の門司港)に到着する頃には日が暮れている。東京駅とほぼ同時期の大正3年(1914年)に建築された木造2階建のネオ・ルネッサンス様式のモダンな駅舎。立派な手洗い器もあるので、まずは蒸気列車に長時間乗って煤けた手や顔を洗ってスッキリしたい。乗継時間が45分ほどあるので、洗顔後は桟橋近くを散策。

この時間はバナナの叩き売りをしているだろうか。明治後期から輸入が始まったバナナはまだ高級な果物だが、台湾産バナナの輸送船の寄港地である門司港では、大正に入ってからバナナの叩き売りが始まった。輸送中に熟れて賞味期限が近づいたバナナを、独特の口上を述べながら買い手が付くまで段々と値下げしながら売りさばくもので、この時間でも行っていれば食べごろのバナナを格安で入手できそうだ。

なお、門司・下関周辺は要塞地帯に指定されている。今回はカメラを持参していないが、このエリアでの街並みや風景の撮影には要塞司令部の許可が必要なので留意したい。土産物屋で販売されている絵葉書の写真には「要塞司令部許可済」の表示がある。


◎門司 2005→2020 下関  関門航路 下関行2便

関門間の鉄道連絡については、架橋とトンネルの両案の比較検討を経てトンネルで結ぶ方針となり、海底地質調査が進められていたが、まだ着工していない。旅客は関門連絡船で下関に渡る必要がある。輸送需要が増えて門司が手狭になったので、貨物航路は門司・大里間の小森江桟橋から発着していた。

就航している旅客船は、大正3年(1914年)竣工の門司丸、大正9年(1920年)竣工の豊山丸と長水丸の計3隻。時刻表に掲載されている汽船一覧表には、このほかに厳島丸の記載があるが、大正13年に宇高航路から転属して同年のうちに引退したとの情報もある。下関までは15分の航海だが、夜間でも往来する船の灯りが流れていく光景が見られる。

  

◎下関 2045→翌2030 東京 東京行 特別急行2列車

下関駅前には鉄道省直営の山陽ホテルがあり、シベリア鉄道経由で欧州と行き来する旅客も利用する高級ホテルに泊まりたくなるが、今回は最北端まで早乗り継ぎの旅なので、25分接続の特急に乗り継ぐ。鹿児島発門司行の2列車、関門連絡船2便、下関発東京行の2列車と、列車・船便番号から、接続を意識したダイヤと見て取れる。関釜連絡船とも接続する欧亜連絡国際列車としての位置付けもあり、鉄道省で最高レベルの看板列車だ。

1・2等車のみの10両編成。機関車側から、荷物車1両+2等寝台車3両+2等座席車2両+食堂車1両+1等寝台車2両+1等展望車1両となっている。

客車は、特急用として大正10年(1921年)から順次製造された、28400系と分類される20m級の木造3軸ボギー客車である。1等展望車(オテン28070形)は後部に広い窓のある展望席が10席とクロスシート8席で構成、2等座席車(スロ29000形)は転換クロスシートで定員60名に化粧室と給仕室を備える。1等寝台車は片側通路で2人用個室と4人用個室がある。部屋単位の販売ではないため、相席の場合もあるが、追加料金で2人部屋の1人使用もできるようだ。2等寝台車(スロネ28500形)は通路の両側に線路と並行に向いた2段寝台が並んでいて1両の定員は28名。食堂車(オシ28670形)は厨房に続いて通路の左右に2人卓と4人卓が並び30席。荷物車はマニ29930形。

特急2列車は1・2等のみの豪華編成で、3等車は無いが、代わりに3等車のみの特急が2列車の後続の時間帯に設定されている。

機関車は、後にC51形に改番される18900形蒸気機関車が、大正8年(1919年)から幹線旅客列車用に国産設計で製造され、この当時は東京から下関までの東海道山陽筋と仙台、岩見沢に配置されていたので、これが交代で2列車を牽引していたようだ。(後年には九州や山陰、関西、常磐、北東北や北海道各地にも配置された)

下関から東京までの所要時間は23時間45分の長時間。検札を済ませたら、まずは食堂車を探訪したい。九州の食堂車は半室構造だったが、こちらは1両全体が食堂車で、30席規模。東京を拠点とする「みかど食堂」の運営で、始発駅発車直後から夜は深夜1時まで、朝は5時からの営業となっている。ただし、定食営業時間は一品料理の提供が停止される。東京・下関間1・2列車の夕定食時間(ディナータイム)は17時から20時までである。下関2045発のため、この夜はディナータイムの設定が無く、最初からパブタイムということになる。メニューを見ると、主菜だけでもハムエッグやビーフステーキ、コールチキン、カレーライス、サンドイッチなど。飲み物の種類も多く、ビール、シャンペン、ワイン、ウイスキー、ベルモット、サイダー、ジンジャーエールなど。走行する列車内でこのような高級かつ多彩なメニューを用意するには相当な経費がかかっている筈だが、車内営業許可にあたって市中の同水準のレストランと同水準の価格に規制されているので、極端に高価な訳ではない。先ほどかしわめしを食べたので、今夜は軽めの夜食に留める。

夜更けの山陽路で夜食を済ませたら、寝台で休む。途中、三田尻や広島で5分前後の停車時間があり、ここで給水をしたと思われる。長距離なので、18900形同士で機関車の交代もあったかも知れない。また、瀬野と八本松の間には急勾配があるため、特急も含めて瀬野に停車して後部に補助機関車を連結していた。この頃の補機は9600形である。(後のD50となる9900型が広島機関庫に配置されたのはこの年の夏以降)時刻表では瀬野を208に発車してから337の糸崎着まで停車駅が無い。この年の夏に、鉄道開業以来のねじ式連結器から、アメリカで普及している自動連結器への一斉取り換えが予定されていて、自動連結器導入後は走行中の補機解放も検討されているらしいが、この時点では停車しての切り離しだった。八本松か西条で運転停車をしていたのか、それとも糸崎まで補機をつないでいたのだろうか。1等乗車券を持っていれば、展望車から確認できるが、セノハチを通過するのは深夜2時台である。翌日の御殿場越えでも補機の様子が見られるので、切離しまでは見届けずに、寝台車に戻った。列車給仕に、7時頃に起こしてもらうよう依頼して就寝。

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