2006年08月 広島電鉄650形 被爆電車
組合派遣で広島を訪問した際に、広島の被爆電車に乗る行事に参加しました。
戦時中の広島電鉄は、徴兵による人員不足を補うため、広島電鉄家政女学校を設立。女学生が寮生活で勉強しながら車掌や運転士として乗務していました。今回の行事では、当時運転していた元女学生の体験談を聞くことができました。
被爆電車として知られている650形は3両が在籍していて、この日は貸切列車として運行されました。
平成18年(2006年)8月5日(土)
840にホテルを出発。平和公園に寄った後、市民球場の脇から運動公園に入り、会場である第1剣道場に到着。猛暑の中を歩いてきたため、まずは缶飲料を買って涼む。入口で受付を済ませ、資料を受け取り中に入る。
開会時間となり、最初に、アニメ「広島に一番電車が走った」の上映。広島電鉄家政女学校の寮生活で授業を受けながら広電の車掌をしていた少女の話。以前テレビで見たこともあるが、改めて見ると感動的。
次いで、当時15歳で広電の運転をしていた女性から体験談。昭和19年に14歳で家政女学校に入り、勉強しながら車掌業務に従事して、やがて運転手不足のため、1日の見習いで運転を開始。停電と空襲警報で運転見合わせが度々あったという。8月5日は23時終了予定が翌6日の1時になった。6日は急な腹痛で欠勤して寮で休んでいたところに原爆投下があったとのこと。
広島電鉄家政女学校は昭和18年設立。軍都だった広島では軍の徴用も多く、その労働力を補充するために、勉強をしながら運転や車掌を行う女学生が養成された。広島電鉄は被爆直後から電信隊の援助で復旧工事を行い、被災3日後に広電西広島から天満町までが再開した。
広島電鉄では、被爆した車両の保存に努力してきた。現在も運転されている4両の650形の運転席後ろに、そのいわれが表示されている。実際に運行されているのは651と652。653は動態保存、654は今年7月21日に広島交通科学館に寄贈された。本日は休車中の653も無理して運行してもらうことになった。本日170名の参加で、1車両50名以上の乗車。
650形は昭和17年の製造。一部改造は行われている。3つある扉のうち1つを閉鎖して昭和51年にワンマン化改造。昭和57年に方向幕の拡大など。
12時前から昼休み。弁当と追加資料が配布される。食べながら資料一式を眺める。13時からコース説明。
出発時刻は1400から5分毎に乗車。号車番号は来た順で、車両番号とは関係ない。座席は少ないので譲り合って。乗車時間は45分間で、原爆ドーム前から紙屋町、電鉄前、専売局前(現・皆見町6丁目)、広島駅に至り、広島駅で解散とのこと。
会場を13時半に出発して待ち合わせ場所へ。広電の職員がいる。
車両毎に並んで外に出ると、むっと暑い。少し歩いて、市民球場の軒下で待機。電車通りが見え、1347頃に回送?の653号が西広島方向に走って行った。1352には652号も。14時に第1陣が653号に乗って出発するところを撮影。次いで652号が入ってきたので、横断歩道を渡って原爆ドーム前電停から乗り込む。冷房改造がされているが、古めかしい扉と木製の床が往時を偲ばせる。前方と後方に電車の由来が記されている。
この車両は宇品付近で被爆したが、損傷が小さかったため、8月中に復旧したもの。また、車内の中吊には、被爆電車へのメッセージが多数掲げられている。
電車の由来や、沿線の被爆関係建物についてガイドから説明がある。タイミングがずれたり、左右が適当だったりするのはご愛嬌。それぞれ、ガイドの話を聞いたり車内の写真を撮ったりして過ごした。電車のモーター音も、最近少なくなった吊り掛け式であった。
やがて広島駅に到着。降車ホームで記念撮影。回送となった652号が出ていってしばらくすると、第3陣の651号車も入ってきた。これも見送る。この日の行事は広島駅到着を以て解散となった。
この記事を公開した令和7年(2025年)は原爆投下から80年となる年です。未だに世界各地で戦乱が絶えませんが、この先も核兵器が使われないこと、やがては核兵器が廃絶されることを願っています。
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