2007年08月 長崎 2日目 - 長崎平和祈念式典、島原鉄道で加津佐まで

 寝台特急「あかつき」から特急「かもめ」に乗り継いで長崎入りして、平和祈念式典に参加した後、島原鉄道に乗車。当時の島原鉄道は加津佐までの運行でしたが、年度末で島原外港から先の廃線が予定されていました。

1日目

平成19年(2007年)8月9日(木)

  博多に着くころには明るくなっていた。博多停車中の787系特急車両には、「熊本築城400年」の文字が貼られている。




 鳥栖では、なはを切り離すため17分停車。切り離しを撮影している人が多いが、中には先に発車するなはの乗客もいて、慌てて乗り込んでいた。この先、長時間の停車は無いので、ここで朝食の確保。ホームの売店はまだ閉まっていたので、改札外の売店で焼麦(しゃおまい=シューマイ、小型は400円)を購入した。ホームに戻ると、ホームの売店も開いたところだった。駅構内にはタンク式のSLが保存されている。

 ここからの機関車はED76 70。なはと別れた後のこの機関車も、ヘッドマークは「なは・あかつき」である。本州内を走行中は、発車時のショックの比較的小さい慎重な運転だったが、九州に入ってからは、やや強い衝撃が来る。

 640に朝の放送が入った。時間どおり運転中とのこと。

 佐賀を出てから朝食。シューマイのみの弁当である。箸は付いておらず、開封用として付いているナイフで食べる。しばらく田畑が平野に広がり、地平線が見えるが、肥前山口を過ぎると、海岸や山間部を走る。海岸線に沿ったカーブをゆっくりと進むので、入江の様子がよく見える。


 諫早に812着。先頭機関車を撮影する間もなく発車していった。 


◎諫早 818→836 長崎 かもめ1号 長崎行 特急2001M 885系6両編成 先頭=クロハ884-7

 あかつきが出発した1番ホームには、かもめ1号に乗る人の列が長くできている。着席は見込めなかったが、グリーン車との境にあるデッキは広い。5人が立つが、それでも余裕がある。白いかもめの客室内を見ると、普通車指定席も黒革張りで高級感がある。デッキの照明にも趣がある。 

 長崎駅に到着。長崎駅は行き止まりホームで、車止めの終端に「長崎駅」と書かれているのが終着駅らしい。改札の上にステンドグラスが施されているのも長崎の雰囲気を出している。




◎長崎駅前 → 長崎市役所 タクシー 長崎500あ715

 駅前からタクシーに乗車。中型車と小型車で列が別れていて、案内人が立って整理にあたっている。程なく長崎市役所の正面に到着。

すぐ先の歩道橋の下に人が集まっている。ちょうど慰霊祭が終わったところのようだ。



片付けをしていた市厚生会職員に声をかけて、写真を撮ってもらう。ついでに市職労の事務所について尋ねると、別館地下とのこと。行ってみると別館の地下は水道局と保健所に別れていて、最初水道局の地下に行ったら水道局の組合だった。聞くと保健所の地下とのことで、階段を下り直す。市従組の事務局を表敬訪問。ただし、書記長他の役員は不在とのことで、名刺だけ預けて引き返した。

 

 公民館前で電車を待つが、なかなか来ない。やっと来た電車は電停にいた乗客の半分くらいの乗車で超満員となり、次の電車を待つ。


◎公民館前 955頃→1015頃 松山町

  次の電車は程なく来て、混んではいるが、見送った電車よりはましだ。

 松山町手前からは専用軌道だった。

松山町で下車して、人の流れに乗って式典会場のある丘に登る。登ったところに平和の泉、その先が式典の会場入口。

 入口ゲートの左右には被爆写真などの資料が展示されている。また、おびただしい折り鶴が掛けられていた。

 ゲートには金属探知機が設置されている。昨年の広島では大きな荷物の中身はチェックしていたが、金属探知機までは無かった。今年の4月に長崎市の伊藤一長市長が銃撃され暗殺された事件の影響だろうか。ただし、空港のようなX線探知機ではなく、荷物を持ったまま探知機を通り、「チャイムが鳴った人はあちらで荷物の検査を受けてください」と雑踏の中で案内しているので、チャイムが鳴ってもそのまま通り過ぎた人もいるかも知れない。荷物検査を受けたが、「きっとカメラですね。ナイフなどは無いですよね」と簡単に確認する程度。

 ゲートの前後で、式典のしおりや、紙パックのお茶が配布されている。お茶のサービスは中の方でも行われており、猛暑の中で有り難い。奥へ進みながら飲み、もう1本貰った。式典の座席の上は巨大なテントで覆われている。「満席」表示の立て札があちこちに立ち、入場制限をしている。会場両脇のスペースを開放しているので、そちらで観覧をとのことで回って見るが、あまり視界は宜しくない。見ていると会場入口の規制も大ざっぱなので、適当に擦り抜けて入ることができた。もちろん一般席だけでなく遺族席まで満席のようで、遺族席の後ろの空いたスペースに立つことになり、少し遠いがかえって正面を見渡すことができて、かえって好都合かも知れない。残念ながらテントの陰から出るので日差しは当たるが。なし崩しに、後ろの方も立ち客が埋まった。

 時間になり式典が始まる。市議会議長の式辞に続いて市民代表の献水の後に来賓らの献花があったが、そうそうたる顔触れのようだ。首相、厚労相だけでなく衆議院副議長と、一昨日就任したばかりの参議院議長、与野党各党の代表も、遠目なのでよく見えないが、それぞれ本人が多いようだ。また、過去最多42か国の代表が続く。各国とも正式名称が読みあげられるが、その中にはロシアやパキスタンなどの核保有国も含まれていた。

 献花が終わると間もなく11時2分の黙祷の時間。皆起立する。自分は元々立っていたが、この時ばかりは荷物を置いて脱帽して黙祷した。

 田上新市長による平和宣言。北朝鮮の核実験や米国の核兵器更新の動きなど核拡散防止体制の揺らぎや、日本国内の核兵器を容認するかのような動きについて懸念が示され、非核三原則の法制化や被爆者援護の充実を訴えた。

 平和への誓いは、広島では子供代表だったが、ここでは被爆者の代表だった。被爆当時6歳だった代表は、大変に迫力のある口調で当時の様子を語り、原爆の投下は人類の真理に反することと、平和への努力の必要性を訴えた。会場からの拍手は特に大きかった。

 この辺りから若干の退席者があるが、この後も児童合唱、安倍首相外2名の来賓挨拶、地元高校生による「千羽鶴」の合唱と続く。広島と異なり、参列者は聴いているだけ。その代わり児童合唱も千羽鶴も、しんみりと聞き入ることができた。

 千羽鶴の合唱を最後に平和祈念式典は終了。退出する人と平和祈念像の参詣をする人の二手に分かれる。少し空くのを待って前方に進んだ。セルフタイマーや近くにいた人への依頼で記念撮影をして、祈念像への参詣を済ませる。既に片付けの始まっている会場を後にした時には既に12時をだいぶ回っていた。


 来賓挨拶の後、メッセージや祝電が出口に掲示されているというので改めて出口を見ると、衆議院議員などと並んで、数は少ないが、大阪府吹田市長や岐阜県大垣市長など、自治体の首長からのメッセージが掲示されている。

 一本足鳥居を回る計画だったが昔見たことがあるし時間もないので、爆心地経由で浦上駅へ行くことにする。




 爆心地のモニュメントは、平和祈念像と同様に長崎市長らの献花が置かれていた。予定していた列車の数分前に浦上駅に到着。警察の警備車両が待機していた。ちゃんぽんや皿うどんを食べる時間は無く、せめて長崎名物と聞いたアイスを買おうと思っていたのだが、平和祈念公園入口で見たのみで、爆心地から浦上駅までの間には見当たらなかった。残念ながら長崎名物は何一つ口にしないで浦上を後にした。

◎浦上 1233→1247 諫早 かもめ22号 博多行 特急2022M 885系6両編成2両目5号車(車番未確認)

 長崎は自動改札だったが、浦上の改札は有人。

 車内はまた混んでいて、デッキの自販機の前に立つ。汗が引かないまま、諫早に到着。 


◎諫早 1254→1528 加津佐 加津佐行 キハ2509単行ワンマン

 接続時間が短い中で一旦改札を出て、券売機で一日乗車券を購入。発車間際に乗り込むと車内は混んでいる。後ろ乗り前降りのワンマンカーで、後ろの方に立つ。

 乗客の半数程度は高校生。各駅で少しずつ下車して行くが、高校近くの駅ではまとめて乗って来るので、乗客総数はあまり変わらない。高校生同士の会話にも、かなり九州弁が入っている。テレビの影響で方言が消えたと言われて久しいので意外だった。

 運転本数が少ない割には交換駅が多い。これならダイヤに柔軟性が保てる。上り列車との交換がある駅でも停車時間の短いことが多かった。

 島原では5分停車。以前下車したことがあるが、城を模した立派な駅舎だ。

 南島原には車庫がある。キハ20が何両か停まっている。ここでは、ちょうどトロッコ列車との交換だった。

 島原外港から先は、年度末での廃止が予定されている区間。右手に普賢岳が見えてくる。水無川の付近は、平成2年からの噴火災害を受け、一部高架になっている。せっかく災害から復旧したのに廃線となるのは残念だ。

 1450堂崎でようやく着席。列車は海岸と山間部を目まぐるしく行き交う。

 原城手前の左手に「原城跡」の看板が見えた。



 また海岸に出る。南有馬の手前では海岸沿いの崖地で徐行があった。

 終点の加津佐は片面ホームだが、線路は側線がある。写真撮影をしている人が2、3人いる。




 加津佐で撮影後、コンビニで飲料購入。バスを待っていたら道の反対側で、乗り損ねてしまった。加津佐駅前に停まっていたタクシーで追いかける。

 最近はバスの利用客が減って停車することが少ないので、以前と比べると追いつくのは大変らしい。運転手から、どこから来たか尋ねられ、神奈川から組合で長崎の慰霊祭に来た後に寄ったと答え、しばらくその話題。タクシーの組合でも署名活動が行われていたとのこと。この近くの丘に、「原爆しょうがない」発言で辞任に追い込まれた久間前防衛大臣の家があるという。

 島原鉄道やバスも話題に。島鉄と地元の協議の中で、線路を自治体が持って島鉄が運行する案も出たらしいが、自治体が赤字を負い切れないということで、島原外港から加津佐までの年度末の廃線が決まったとのこと。かつて30分毎に走っていたバスも県営バスが撤退して大幅に便数が減り、今度は鉄道も無くなるというとマイカー頼りになるが、運転手氏の子供2人も大学生で下宿しており、厳しいと言う。

 やがてバスが前方に見え、追い越して最初のバス停で降ろして貰った。「楊」というバス停で、初乗りは500円、メーターで2020円のところ、2000円にしてくれた。


◎楊 →1639 愛野駅 愛野駅行 バス 長崎22あ2684 

 バスはICカードが導入されている。一日乗車券の場合は整理券を取る。

 バスは若干のお年寄りの他、中高生の乗り降りがある。下車する際にきちんと、「ありがとうございました」と言う。

 バスはしばらく海岸沿いを走る。風景は良いのだが、日差しも強いので、途中から陸側の席に移った。やがてバスは山間の道に入って来た。

 上石田の差かの上から、少し海岸が見えた。また海岸を見下ろす道を進む。特に眺めが良いと思った場所は、愛野展望所だった。愛野の市街地(雲仙市役所がある)に入り、初めて信号停車。アイドリングストップした車内はしばしの静寂。間もなくバスは愛野駅に到着。

 とんがり屋根の駅舎には平仮名で「あいのえき」と表示。沿線の幸、愛野、吾妻の3駅をつないで、「幸せを愛しの吾が妻へ」という縁起切符を販売している。


◎愛野 1651→1720 諫早 諫早行 キハ2513単行ワンマン

 ボックス席に納まる。森山でキハ20系の2連とすれちがう。後ろからも撮ろうと思ったが、女子高生が車座になっていたので遠慮した。終点の1つ手前の本諫早では下り列車との交換のため5分停車。ここから乗車してくる人が多い。愛野からボックス独占だったのが、急に満席で少なからぬ立ち客もいる状態になった。

 終点の諫早はJRと改札が共同なので、下車時に精算済証を貰う。

 列車の時間まで少しあるので、駅前に出て駅舎を眺める。平屋だが天井の高い駅舎の周辺には店舗も多い。バスターミナルは、駅前広場の先にある歩道橋を渡ったところにある。


◎諫早 1745→1756 大村 シーサイドライナー 大村行快速3342D  キハ67系4両編成 先頭=キハ67 2

 若干の空席もあるが、短距離なので立つ。2ドアの転換クロスシート車両で、高級感がある。運転室後ろの窓が小さいのは、国鉄時代の車両だからだろうか。

◎大村駅→長崎空港  大村ラッキータクシー1955号車

 市街地を抜けて空港へ。長崎空港は世界最初の海上空港。空港への連絡橋への分岐点近くでは、地元の労働団体の集会が行われていた。

 連絡橋には歩道も付いている。橋を走行中、ちょうど着陸する機体が見えた。

 空港に到着して、自動チェックイン機でチェックインとマイルの登録をした。今回は預ける荷物はない。空港のビルは一部改装中だが、多くの店が営業している。まずは土産物を購入。職場へは九州の果物を用いた餅菓子、組合にスライスカステラ、自宅に琵琶ゼリーを購入した。

 飲食店も幾つかあるが、時間がなくなってきた。セキュリティチェックは大変に混雑している。15分くらい並んで搭乗口に就いたのはギリギリの時間だった。

◎長崎空港 1900→2040 東京羽田空港 JAL1854便 A300-600型 座席15E(右通路から内側へ2列目)

 手荷物検査が混雑していた影響か、19時直前まで乗客が搭乗してくる。1906にゲートを離れ、その後も離陸待ちがあったようで、1917-18にようやく離陸した。

 離陸後、安定飛行に入るまで休憩。満席なので空弁を食べるかどうか迷っていたが、左隣の席の人が食事を始めたので、合わせて食べることにして、空弁を開封した。隣の人は軽食なので、なるべく急いで食べる。

 ちょうど食べ終わった1941に機長からの放送。現在松山上空で、大島経由での東京到着は10分遅れの見込みとのこと。九州上空は気流が悪かったが、この先の気流は良好の見込みらしい。

 ベルト着用サインも消えて安定飛行に入ったので、旅日記の作成を再開。この間、機内でNHKニュースが放映された。その中で、本日の長崎の平和祈念式典の様子も報じられていた。

 2038頃から着陸体勢に入り電子機器が使用不可となったので作業を中断。合わせて夜間着陸のため減光されたので、音楽を聴きながら休息。

 地上に近づき、街明かりは右側に多く見える。大島から千葉方面に抜て左旋回して回り込んだようだ。2051着陸。ゲートが開いたのは定刻より19分遅れの2059。前の方の列にいたので、比較的早く降りることができた。 

 荷物を預けていないので、そのまま出口に向かえる。京急の先発列車は品川方面。蒲田で乗り換えると混みそうなので、その次の浦賀行を待つ。 


◎羽田空港 2125→ 横浜 浦賀行 特急 新1000系4両編成2両目=1415

 早目にホームで待っていたので着席できたが、発車前には立ち客多数。


◎横浜2155 → 2231 東逗子 久里浜行1975S  E217系15両編成 5号車サロE217-45

 短時間の乗継ぎで、飲物を買う時間も無かった。車内販売で買おうと思ったが、回ってこない。旅日記をまとめながら東逗子まで乗車。

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